世界的にも有名で、ロシア海軍屈指の名将、マカロフ中将の司令長官就任は、日本の連合艦隊にとっては、脅威であった。
旅順港口閉塞作戦に失敗した、東郷平八郎司令長官は、四月七日、部下の進言を受け、旅順港口外に機械水雷を沈置することを命じた。
命令を受けた機雷敷設隊は、密かに行動し、四月十二日夜、予定の場所に敷設を終えた。
四月十三日の早朝、マカロフ中将の将旗を翻した戦艦「ペテロバウロフスク」を先頭に、戦艦「セバストポリ」、二等巡洋艦「アスコリド」「ディアーナ」、二等巡洋艦「ノーウィック」、それに駆逐艦九隻、最後に戦艦「ポベーダ」という陣形の大艦隊が旅順港口を出てきた。
司令官・出羽重造少将の率いる、旗艦の二等巡洋艦「千歳」ら第三戦隊はこの大艦隊に攻撃をかけ、砲撃戦が始まった。第三戦隊は砲撃を交えながら、連合艦隊主力の待つ沖の方へ、マカロフ中将の艦隊を誘い出す作戦だった。
東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊主力は、旅順港口南方一五カイリ(約二七キロ)のところで、マカロフ中将の艦隊を待ち受けていた。
ところが、待ち受けている連合艦隊主力を発見した、マカロフ中将の艦隊は、まるで魔物でも見たように、一戦も交えず、くるりと反転して、引き返して行った。
マカロフ艦隊は、要塞砲の射程内の旅順港口近くまで、下がると、旗艦「「ペテロバウロフスク」を先頭に反転にかかった。要塞砲の援護射撃を受けながら、東郷艦隊と決戦する作戦だったのだ。
だが、反転にかかった、その瞬間、マカロフ中将が座上する旗艦、戦艦「ペテロバウロフスク」が大爆発を起こした。日本海軍が敷設した機械水雷に触れたのだった。海水が艦体を包むように吹き上がった。
続いて二回、三回、四回と爆発が起こった。二回目は「ペテロバウロフスク」の艦内に格納してあった十八個の水雷が誘爆したものだった。三回目の爆発は、総汽缶が破裂し、四回目は、弾火薬庫内の全てが爆発した。午前十時三十二分だった。
待ち受けていた、連合艦隊旗艦の戦艦「三笠」艦橋から、東郷平八郎司令長官が愛用するツァイスの双眼鏡で見ていると、「ペテロバウロフスク」は右舷に傾いて沈没した。
この「ペテロバウロフスク」爆沈で、高名な名将、太平洋艦隊司令長官・マカロフ中将は戦死した。ロシア海軍は、屈指の人材を失ったのである。東郷司令長官が敷設を命じた機械水雷によって。
「ペテロバウロフスク」爆沈による戦死者は、司令長官・マカロフ中将、参謀長・モーラス少将、参謀・アガベーエフ大佐以下、士官三十一名、下士官・兵など六百三十余人だった。
これはロシア海軍にとって、致命的な大惨事だった。日本海軍に例えれば、旗艦「三笠」が爆沈し、東郷司令長官、島村参謀長、秋山作戦参謀を始め乗員六百余名が戦死したことになる。
このことから、ロシアにとって、どれほどの大損失であったか、明らかだろう。この「ペテロバウロフスク」の爆沈で、ロシア海軍の敗北が決定したと言ってもよい位だ。
東郷平八郎は、この「ペテロバウロフスク」爆沈について、二十年後の大正十三年六月十八日、海軍大学校において、学生らに次のように語った。
「あの機雷敷設は非常な大成功で、翌日の昼頃(実際は午前十時三十二分)と思うが、東郷が見ておると、案のごとく、確かに旗艦が爆沈するのを見た。それで、一人で万歳を唱えた」
「食事のとき、『旗艦が爆沈し、右舷に傾いて沈んだ』と言ったら、誰もこれを確信する者がなかった。前進根拠地の海州邑(朝鮮半島西岸で北緯三十八度線が通るところ)に行ってみると、大本営からマカロフ戦死の電報が来ていた」
「このとき、艦隊長官として弔意を表したらどうかという意見もあったが、日本国に弓を引いた者なるが故に、私はやらなかった」。
また、昭和八年には、海軍大学校で、学生らに対して次のように語っている。
「秋山参謀が弔電を発しては、と申し出たが、自分は、我が帝国の国旗に敵対する者に弔電を発することはできないので、やめさせた」。
東郷平八郎は海軍大学校の学生らに対して、責任を以って語ったのであろうから、それが東郷元帥の本心であったと考えられている。東郷が仕掛けたワナに、マカロフが落ちて死んだのに、「まことに残念でありました」とは、言えなかったのだろう。
旅順港口閉塞作戦に失敗した、東郷平八郎司令長官は、四月七日、部下の進言を受け、旅順港口外に機械水雷を沈置することを命じた。
命令を受けた機雷敷設隊は、密かに行動し、四月十二日夜、予定の場所に敷設を終えた。
四月十三日の早朝、マカロフ中将の将旗を翻した戦艦「ペテロバウロフスク」を先頭に、戦艦「セバストポリ」、二等巡洋艦「アスコリド」「ディアーナ」、二等巡洋艦「ノーウィック」、それに駆逐艦九隻、最後に戦艦「ポベーダ」という陣形の大艦隊が旅順港口を出てきた。
司令官・出羽重造少将の率いる、旗艦の二等巡洋艦「千歳」ら第三戦隊はこの大艦隊に攻撃をかけ、砲撃戦が始まった。第三戦隊は砲撃を交えながら、連合艦隊主力の待つ沖の方へ、マカロフ中将の艦隊を誘い出す作戦だった。
東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊主力は、旅順港口南方一五カイリ(約二七キロ)のところで、マカロフ中将の艦隊を待ち受けていた。
ところが、待ち受けている連合艦隊主力を発見した、マカロフ中将の艦隊は、まるで魔物でも見たように、一戦も交えず、くるりと反転して、引き返して行った。
マカロフ艦隊は、要塞砲の射程内の旅順港口近くまで、下がると、旗艦「「ペテロバウロフスク」を先頭に反転にかかった。要塞砲の援護射撃を受けながら、東郷艦隊と決戦する作戦だったのだ。
だが、反転にかかった、その瞬間、マカロフ中将が座上する旗艦、戦艦「ペテロバウロフスク」が大爆発を起こした。日本海軍が敷設した機械水雷に触れたのだった。海水が艦体を包むように吹き上がった。
続いて二回、三回、四回と爆発が起こった。二回目は「ペテロバウロフスク」の艦内に格納してあった十八個の水雷が誘爆したものだった。三回目の爆発は、総汽缶が破裂し、四回目は、弾火薬庫内の全てが爆発した。午前十時三十二分だった。
待ち受けていた、連合艦隊旗艦の戦艦「三笠」艦橋から、東郷平八郎司令長官が愛用するツァイスの双眼鏡で見ていると、「ペテロバウロフスク」は右舷に傾いて沈没した。
この「ペテロバウロフスク」爆沈で、高名な名将、太平洋艦隊司令長官・マカロフ中将は戦死した。ロシア海軍は、屈指の人材を失ったのである。東郷司令長官が敷設を命じた機械水雷によって。
「ペテロバウロフスク」爆沈による戦死者は、司令長官・マカロフ中将、参謀長・モーラス少将、参謀・アガベーエフ大佐以下、士官三十一名、下士官・兵など六百三十余人だった。
これはロシア海軍にとって、致命的な大惨事だった。日本海軍に例えれば、旗艦「三笠」が爆沈し、東郷司令長官、島村参謀長、秋山作戦参謀を始め乗員六百余名が戦死したことになる。
このことから、ロシアにとって、どれほどの大損失であったか、明らかだろう。この「ペテロバウロフスク」の爆沈で、ロシア海軍の敗北が決定したと言ってもよい位だ。
東郷平八郎は、この「ペテロバウロフスク」爆沈について、二十年後の大正十三年六月十八日、海軍大学校において、学生らに次のように語った。
「あの機雷敷設は非常な大成功で、翌日の昼頃(実際は午前十時三十二分)と思うが、東郷が見ておると、案のごとく、確かに旗艦が爆沈するのを見た。それで、一人で万歳を唱えた」
「食事のとき、『旗艦が爆沈し、右舷に傾いて沈んだ』と言ったら、誰もこれを確信する者がなかった。前進根拠地の海州邑(朝鮮半島西岸で北緯三十八度線が通るところ)に行ってみると、大本営からマカロフ戦死の電報が来ていた」
「このとき、艦隊長官として弔意を表したらどうかという意見もあったが、日本国に弓を引いた者なるが故に、私はやらなかった」。
また、昭和八年には、海軍大学校で、学生らに対して次のように語っている。
「秋山参謀が弔電を発しては、と申し出たが、自分は、我が帝国の国旗に敵対する者に弔電を発することはできないので、やめさせた」。
東郷平八郎は海軍大学校の学生らに対して、責任を以って語ったのであろうから、それが東郷元帥の本心であったと考えられている。東郷が仕掛けたワナに、マカロフが落ちて死んだのに、「まことに残念でありました」とは、言えなかったのだろう。