翌五月二十八日午前六時、ネボカトフ少将の指揮するロシアの補強艦隊は旗艦「ニコライ一世」(九五九四トン)以下五隻でウラジオストック目指して航行していた。だが、午前九時、東郷司令長官の指揮する連合艦隊二十七隻は、その補強艦隊をぐるりと包囲した。
東郷司令長官の信号により、連合艦隊の巨砲が一斉に火を噴いた。ネボカトフ少将は、勝ち目はないとみて、即座に信号士官に命じて「ワレ降伏ス」の信号旗をマストに掲げさせた。
だが東郷司令長官はかまわず砲撃を続けさせた。「ニコライ一世」に砲弾が降りそそいだ。東郷司令長官が一向に攻撃中止命令を出そうとしないので、参謀・秋山真之中佐は「長官、発砲を止めたらいかがですか? 降伏信号を掲げています」と進言した。
双眼鏡で「ニコライ一世」を見つめ続けていた東郷司令長官は「敵艦は動いている」と答えた。秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ。両眼から涙を迸(ほとば)らせていた。敵艦の水兵たちは傷つき、吹っ飛んだりしていた。
戦いが終われば敵も味方もないではないか。秋山中佐の涙は頬を勢いよく滑り落ちていた。東郷司令長官は秋山中佐の涙を見て、思わず涙ぐんだ。だが、公式には、艦の運動が完全に停止した時でなければ、降伏と認められなかったのだ。
とうとうネボカトフ少将は「エンジン停止」と命じた。ようやく「ニコライ一世」は完全に停止した。東郷司令長官は発砲停止命令を出した。ネボカトフ少将率いる艦隊は降伏した。一隻は自沈した。
五月二十八日午前、頭部を負傷したバルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、沈没寸前の旗艦「スワロフ」から駆逐艦「ブイニー」に移され、さらに駆逐艦「ベトビー」に移され、ウラジオストックに向かっていた。
連合艦隊の駆逐艦「漣(さざなみ)」は「ベトビー」と遭遇し、砲撃を加えた。「ベトビー」は降伏した。ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ベトビー」は佐世保に曳航され、ロジェストヴェンスキー中将は佐世保の海軍病院に収容された。
日本海海戦の全ての戦闘は、明治三十八年五月二十八日の夕刻、隠岐ノ島の西方海面での小戦闘を最後に、終了した。
バルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、ロシア皇帝へ、知覚を失った後、艦隊の指揮権をネボガトフに委せた事情を、東郷司令長官を通じて打電した。ロシア皇帝からはフランス公使を通じて、次のような勅電が来た。
「朕ハ卿及ヒ艦隊ノ全員カ露国及ヒ朕ノ為ニ戦闘ニ臨ミ身命ヲ抛(ナゲウ)チ其ノ任務ヲ尽シタルヲ深ク嘉ス帝ハ卿ニ名誉ノ戦勝ヲ冠スルニ至ラサリシモ卿等不朽ノ勇武ハ向後祖国ノ恒ニ誇トスル所トナルヘシ朕ハ卿カ速ニ全快センコトヲ望ム神ハ卿等ヲ慰藉セラルヘシ、ニコライ」。
六月三日夕方、東郷司令長官は、秋山中佐を従え、花束を持って、海軍病院にロジェストヴェンスキー中将を、その病室に見舞った。通訳には山本大尉が当たった。
ロジェストヴェンスキー中将は、頭に包帯を巻き、血の気の無くなった顔に、微笑をただよわせ、半身をベッドの上に起こして東郷司令長官に敬意を表した。東郷司令長官は、そのそばに進んで、ロジェストヴェンスキー中将と握手をして、次のように言った。
「勝敗は軍人を志した者には常につきまとって離れないものです。敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います。要は本分を尽くしたかにかかっています。貴官は有史以来、前例のない一万数千海里に及ぶ航海を、大艦隊を引き連れて遠征して来られました。しかも今日の海戦で貴艦隊の将兵は、実によく勇戦され、感心しております」
「貴官が重傷を負ってまで敢然として大任を尽くされたのに、小官は心から敬意を表します。当病院は俘虜収容所ではありません。諸事不自由でしょうが、どうか、自重自愛されて、一日も早く速やかに快癒されるよう祈ります」。
山本大尉の通訳が終わると、ロジェストヴェンスキー中将は、感激して、もう一度、東郷司令長官に握手を求めた。そのあと、涙をこらえながら東郷司令長官に次のように言った。
「私は名誉の高い貴官に敗れたことを恥としません。貴官の訪問を光栄に思います。貴官の温情は負傷の苦痛を忘れさせたほどです。感激で言葉もありません」。
明治三十九年、帰国したロジェストヴェンスキー中将は、敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられた。意識を失っていた理由で無罪となったが、官位は剥奪された。その三年後、ロジェストヴェンスキー中将は、日本海海戦で受けた傷が原因で病死した。享年六十歳だった。
「完全勝利の鉄則」(生出寿・徳間文庫)によると、日本海海戦でのバルチック艦隊三十八隻の損害は、沈没が、戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、仮装巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻の合計十九隻だった。
また、捕獲されたのは、戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻の合計五隻。抑留は病院船二隻。自沈が巡洋艦一隻、駆逐艦一隻。巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、特務艦二隻はマニラや上海などの中立国に逃げ、武装を解除された。
ウラジオストックに逃げ帰ったのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、特務艦一隻の四隻だけだった。
戦死者は四五二四人で、日本海軍の捕虜になったのは、ロジェストヴェンスキー中将以下六一六八人で、ロシアのバルチック艦隊は壊滅した。
これに対し日本海軍の連合艦隊の損害は、沈没が水雷艇三隻、戦死者一一六人、負傷者五七〇余人で、奇跡のような大勝利だった。
日本海海戦は、イギリスの著名な戦史家、H・W・ウィルソンが、「ああ、これ何たる大勝利か、陸戦においても、海戦においても、歴史上未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない。実にこの海戦は、トラファルガー海戦と比較してもその規模、遥に大である」と感嘆するほどの空前の大勝利であった。
東郷司令長官の信号により、連合艦隊の巨砲が一斉に火を噴いた。ネボカトフ少将は、勝ち目はないとみて、即座に信号士官に命じて「ワレ降伏ス」の信号旗をマストに掲げさせた。
だが東郷司令長官はかまわず砲撃を続けさせた。「ニコライ一世」に砲弾が降りそそいだ。東郷司令長官が一向に攻撃中止命令を出そうとしないので、参謀・秋山真之中佐は「長官、発砲を止めたらいかがですか? 降伏信号を掲げています」と進言した。
双眼鏡で「ニコライ一世」を見つめ続けていた東郷司令長官は「敵艦は動いている」と答えた。秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ。両眼から涙を迸(ほとば)らせていた。敵艦の水兵たちは傷つき、吹っ飛んだりしていた。
戦いが終われば敵も味方もないではないか。秋山中佐の涙は頬を勢いよく滑り落ちていた。東郷司令長官は秋山中佐の涙を見て、思わず涙ぐんだ。だが、公式には、艦の運動が完全に停止した時でなければ、降伏と認められなかったのだ。
とうとうネボカトフ少将は「エンジン停止」と命じた。ようやく「ニコライ一世」は完全に停止した。東郷司令長官は発砲停止命令を出した。ネボカトフ少将率いる艦隊は降伏した。一隻は自沈した。
五月二十八日午前、頭部を負傷したバルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、沈没寸前の旗艦「スワロフ」から駆逐艦「ブイニー」に移され、さらに駆逐艦「ベトビー」に移され、ウラジオストックに向かっていた。
連合艦隊の駆逐艦「漣(さざなみ)」は「ベトビー」と遭遇し、砲撃を加えた。「ベトビー」は降伏した。ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ベトビー」は佐世保に曳航され、ロジェストヴェンスキー中将は佐世保の海軍病院に収容された。
日本海海戦の全ての戦闘は、明治三十八年五月二十八日の夕刻、隠岐ノ島の西方海面での小戦闘を最後に、終了した。
バルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、ロシア皇帝へ、知覚を失った後、艦隊の指揮権をネボガトフに委せた事情を、東郷司令長官を通じて打電した。ロシア皇帝からはフランス公使を通じて、次のような勅電が来た。
「朕ハ卿及ヒ艦隊ノ全員カ露国及ヒ朕ノ為ニ戦闘ニ臨ミ身命ヲ抛(ナゲウ)チ其ノ任務ヲ尽シタルヲ深ク嘉ス帝ハ卿ニ名誉ノ戦勝ヲ冠スルニ至ラサリシモ卿等不朽ノ勇武ハ向後祖国ノ恒ニ誇トスル所トナルヘシ朕ハ卿カ速ニ全快センコトヲ望ム神ハ卿等ヲ慰藉セラルヘシ、ニコライ」。
六月三日夕方、東郷司令長官は、秋山中佐を従え、花束を持って、海軍病院にロジェストヴェンスキー中将を、その病室に見舞った。通訳には山本大尉が当たった。
ロジェストヴェンスキー中将は、頭に包帯を巻き、血の気の無くなった顔に、微笑をただよわせ、半身をベッドの上に起こして東郷司令長官に敬意を表した。東郷司令長官は、そのそばに進んで、ロジェストヴェンスキー中将と握手をして、次のように言った。
「勝敗は軍人を志した者には常につきまとって離れないものです。敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います。要は本分を尽くしたかにかかっています。貴官は有史以来、前例のない一万数千海里に及ぶ航海を、大艦隊を引き連れて遠征して来られました。しかも今日の海戦で貴艦隊の将兵は、実によく勇戦され、感心しております」
「貴官が重傷を負ってまで敢然として大任を尽くされたのに、小官は心から敬意を表します。当病院は俘虜収容所ではありません。諸事不自由でしょうが、どうか、自重自愛されて、一日も早く速やかに快癒されるよう祈ります」。
山本大尉の通訳が終わると、ロジェストヴェンスキー中将は、感激して、もう一度、東郷司令長官に握手を求めた。そのあと、涙をこらえながら東郷司令長官に次のように言った。
「私は名誉の高い貴官に敗れたことを恥としません。貴官の訪問を光栄に思います。貴官の温情は負傷の苦痛を忘れさせたほどです。感激で言葉もありません」。
明治三十九年、帰国したロジェストヴェンスキー中将は、敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられた。意識を失っていた理由で無罪となったが、官位は剥奪された。その三年後、ロジェストヴェンスキー中将は、日本海海戦で受けた傷が原因で病死した。享年六十歳だった。
「完全勝利の鉄則」(生出寿・徳間文庫)によると、日本海海戦でのバルチック艦隊三十八隻の損害は、沈没が、戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、仮装巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻の合計十九隻だった。
また、捕獲されたのは、戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻の合計五隻。抑留は病院船二隻。自沈が巡洋艦一隻、駆逐艦一隻。巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、特務艦二隻はマニラや上海などの中立国に逃げ、武装を解除された。
ウラジオストックに逃げ帰ったのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、特務艦一隻の四隻だけだった。
戦死者は四五二四人で、日本海軍の捕虜になったのは、ロジェストヴェンスキー中将以下六一六八人で、ロシアのバルチック艦隊は壊滅した。
これに対し日本海軍の連合艦隊の損害は、沈没が水雷艇三隻、戦死者一一六人、負傷者五七〇余人で、奇跡のような大勝利だった。
日本海海戦は、イギリスの著名な戦史家、H・W・ウィルソンが、「ああ、これ何たる大勝利か、陸戦においても、海戦においても、歴史上未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない。実にこの海戦は、トラファルガー海戦と比較してもその規模、遥に大である」と感嘆するほどの空前の大勝利であった。