陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

497.東郷平八郎元帥海軍大将(37)元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている

2015年10月02日 | 東郷平八郎元帥
 海軍省を訪ねた原田熊雄に財部海相は「海軍はこれで一段落。西園寺公にご安心をと伝えて下さい」と言った・その観測は甘かった。

 昭和五年六月中旬から、東郷元帥とその私設副官・小笠原長生中将の動きが活発になったのである。すでに東郷元帥八十二歳、小笠原中将六十三歳だった。

 この交代劇の直後、六月十三日、呼び出された小笠原中将が東郷元帥邸に行くと、東郷元帥は「どうも腑に落ちんのでなあ」と言った。

 前日に統帥権問題についての覚書を持って報告に来た財部海相のことだった。ロンドン会議の報告に参内した財部海相が、「今後、条約が批准できるよう努力せよ」と天皇に言われた、と東郷元帥に伝えたのだ。

 東郷元帥は批准に反対だったから、自分の立場が天皇に背くことになる。天皇がそう考えるのは、側近が悪いのだと勘ぐるようになったのだ。

 加藤寛治遺稿「倫敦海軍条約秘録」に、小笠原中将から聞いた話として掲載されているところによると、東郷元帥は財部海相に次のように言って怒ったという。

 「批准は海軍大臣が行うものではない。職責なきものに(陛下が)そんなことを仰せられるはずがない。もしそれが真実なら、死をもってお諫め申し上げるべき問題だ。わしは、場合によっては直奏する」。

 小笠原中将は「その話をして元帥はついに涙さえ落とされた」とも書いている。東郷元帥は自分の考えが天皇と違ったことが、よほど悔しかったのだろう。

 新軍令部長・谷口尚真大将の最初の難問は軍事参議官会議で条約批准の承認を得ることだった。成否は東郷元帥の説得にかかっていた。谷口大将は東郷元帥が英国王戴冠式に渡英した時に、東郷元帥の副官(中佐)で一緒に英国、米国を旅行していた。

 谷口大将は東郷元帥に「批准をお願いします。反対されると、私は軍令部長を辞職しなければなりません。私の辞職は、どうでもいいが、海軍に大動揺をきたします」と頼んだ。

 だが、東郷元帥は「一時はそうなろう。が、いま姑息なことをして将来取り返しのつかぬことをするのは大不忠だ。今、一歩退くことは退却することで、これは危険極まりない」と答えた。

 谷口軍令部長は仲介役の岡田啓介大将に、「もはや施しようがない」と伝え、七月二日、再び東郷元帥邸を訪ねた。そこには小笠原中将も同席していた。

 谷口軍令部長が条約批准を重ねてお願いすると、東郷元帥は頭ごなしに拒否して次のように言った。

 「わしの実戦経験からしても、今回の条約の兵力では不足で、国防上の欠陥は確かだ。駆逐艦や潜水艦のような奇襲部隊は別として、巡洋艦は主力艦対米比率六割の今日、八割を要すると思うが、それが七割にもならんのでは話にならん」

 「飛行機など協定外の兵力でこれを補うというが、それが政府の断固とした保証がなければ、条約といっても一片の紙切れと同じじゃ」。

 谷口軍令部長が「そんなに言われるのなら、自分も辞職するしかありません」と言うと、東郷元帥は「人間は自分の所信をもって進むべきだ。自分の考え通りにしたらいいじゃないか」と突き放した。

 もはや策なしと嘆いていた谷口軍令部長は「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」の気持ちになり、自分の前任者で、東郷元帥を最も頼りにしている軍事参議官・加藤寛治大将から説得してもらおうと思った。
 
 昭和五年七月三日、谷口軍令部長は、加藤大将を訪ねた。加藤大将は東郷元帥を説得する条件として、次のように言った。

 「なんといっても、元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている。だから、まず、財部が海相を辞職することだ。部内の信用も無いのだから一日留まるは一日の損だ」。

 だが、その加藤大将にも苦しい立場があった。東郷元帥と共に条約に反対していた軍事参議官・伏見宮博恭王・元帥が昭和天皇の意向を察知して「条約の批准はしなくてはならぬ」と言い出したからだ。軍事参議官会議で、東郷元帥と伏見宮元帥が対立しては困るのだった。

 七月四日午後、東京・芝の水交社(海軍士官集会所)で、まとめ役の軍事参議官・岡田啓介大将と谷口軍令部長、軍事参議官・加藤寛治大将の三者会談が開かれた。それは、東郷元帥対策で、次の様なやり取りがなされた。

 加藤大将「政府が誠意をもって兵力を補充すれば国防は保てぬことはない」。

 岡田大将「それなら自分も同じ意見だ。これで元帥の承諾は得られるのか?」

 加藤大将「財部が海相を辞職すれば望みなきにあらずだろう」。

 岡田大将「批准後に辞職させるということであれば、自分が勧告してもいい」。