その当時(昭和二年初頭)、参謀本部第一部(作戦)では、次の三人の課長が、荒木貞夫部長の隣の部屋に、三人とも同室の配置だった。
作戦課(第二課)課長・小畑敏四郎(おばた・としろう)中佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・ロシア大使館附武官・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・従三位・勲一等瑞宝章)。
要塞課(第三課)課長・河村恭輔(かわむら・きょうすけ)大佐(山口・陸士一五・砲工高一五・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・砲兵中佐・参謀本部要塞課長・砲兵大佐・野戦砲第二二連隊長・少将・津軽要塞司令官・野戦重砲兵第四旅団長・陸軍重砲学校長・中将・第一六師団留守師団長・第一師団長・従三位・勲一等旭日大綬章)。
演習課(第四課)課長・柳川平助(やながわ・へいすけ)大佐(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・陸軍大学校兵学教官・北京陸軍大学教官・騎兵中佐・陸軍大学校兵学教官・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章)。
陸士卒業の期と陸大卒業の期は、おおよそ、十期の差があるといわれている。河村大佐は陸士一五期、陸大二七期で、十二期の差である。柳川大佐も陸士一二期、陸大二四期恩賜で、十二期の差だ。
だが、小畑中佐は陸士一六期、陸大二三期恩賜で七期の差でしかない。しかも陸大は恩賜である。小畑中佐は、陸士は河村大佐より一期、柳川大佐より四期も後輩だが、陸大は河村大佐より四期、柳川大佐より一期早く卒業している。若くして難関の陸大に合格しているのだ。
なお、当時陸軍省整備局動員課長・永田鉄山中佐は、陸士一六期、陸大二三期次席で、小畑中佐と同じ七期の差である。ちなみに、陸大二三期の首席は、当時、参謀本部編制動員課長・梅津美治郎大佐(陸士一五期)だった。
陸士一六期の同期生で最初に陸大二三期に合格し入学したのは、この永田中将、小畑中将と、藤岡萬蔵少将、谷実夫少将の四人である。なお、陸大二三期には、陸士一八期の酒井鎬次中将(恩賜)と稲葉四郎中将がいる。
当時私(有末少佐)は第四課の庶務将校であった。柳川課長は、何とかして作戦課長だけには一室を与えたいといって、私に第四課の室割を考えて無理をして(四期も)後輩の小畑さんの為に独立した室を準備させた。
御自分の課はしのんでも、作戦課長の小畑さんの仕事(構想)をしやすく、考えられていた程であった。しかも、一番古参の御自分と十五期の河村大佐と二人は同室にして、中佐の小畑さんを一人の単独の室で執務させられた。こんな美しい話があった。
当時(大正末期)は、いわゆる太平時代であり、金を持っている陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった。
永田さんが動員課長になって、東條さんが陸大教官から軍事課の高級課員になられた時、何かの話の折りに栄転だといって羨ましがった人がいた時、柳川課長は「統帥の大学教官から軍政の仕事に就くのを栄転というそういう時代になったことは誠に嘆かわしい」と嘆息された。
柳川さんという人はこのように、よく筋を通す人だった。こういう人柄を買って荒木さんは、柳川さんを同期の小磯さんに代えて次官にされたのだろう。
これは永田さんの関係ではないが、陸軍省と参謀本部の間にはいろいろと軋轢や不満もあり、それが後の派閥(?)の関係にも影響したのではなかろうか。
例えば皇太子殿下に対する軍事の御前進講という軍事学に関する御教育、御養育係りというのは参謀本部の仕事だった。
それを阿部信行少将(後の大将・首相)が総務部長から軍務局長に代わった時に一緒に持っていかれた。そういう問題が参謀本部、特に作戦系統で問題になって喧しいことがあった。阿部さん(陸士九・陸大一九恩賜)と、荒木さん(陸士九・陸大一九首席)は同期で、ライバル意識が相当にあった。
当時荒木さんが第一部長、小畑さんが第二課長の時でも、いろいろな要求を出すが陸軍省がなかなか承知しない。山東出兵をやるにしても、陸軍省と参謀本部では出兵理論が違うのではないが、いわゆる統帥と政治の関係、政府の予算がものを言うので、参謀本部が圧迫されがちだった。
私(有末少佐)は昭和七年九月十八日、満州の大隊長から陸軍大臣秘書官に転任した。満州事変後の昭和六年、十月事件の後に荒木貞夫中将が陸軍大臣になり、軍務局長には教育畑の山岡重厚少将を抜擢された。
作戦課(第二課)課長・小畑敏四郎(おばた・としろう)中佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・ロシア大使館附武官・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・従三位・勲一等瑞宝章)。
要塞課(第三課)課長・河村恭輔(かわむら・きょうすけ)大佐(山口・陸士一五・砲工高一五・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・砲兵中佐・参謀本部要塞課長・砲兵大佐・野戦砲第二二連隊長・少将・津軽要塞司令官・野戦重砲兵第四旅団長・陸軍重砲学校長・中将・第一六師団留守師団長・第一師団長・従三位・勲一等旭日大綬章)。
演習課(第四課)課長・柳川平助(やながわ・へいすけ)大佐(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・陸軍大学校兵学教官・北京陸軍大学教官・騎兵中佐・陸軍大学校兵学教官・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章)。
陸士卒業の期と陸大卒業の期は、おおよそ、十期の差があるといわれている。河村大佐は陸士一五期、陸大二七期で、十二期の差である。柳川大佐も陸士一二期、陸大二四期恩賜で、十二期の差だ。
だが、小畑中佐は陸士一六期、陸大二三期恩賜で七期の差でしかない。しかも陸大は恩賜である。小畑中佐は、陸士は河村大佐より一期、柳川大佐より四期も後輩だが、陸大は河村大佐より四期、柳川大佐より一期早く卒業している。若くして難関の陸大に合格しているのだ。
なお、当時陸軍省整備局動員課長・永田鉄山中佐は、陸士一六期、陸大二三期次席で、小畑中佐と同じ七期の差である。ちなみに、陸大二三期の首席は、当時、参謀本部編制動員課長・梅津美治郎大佐(陸士一五期)だった。
陸士一六期の同期生で最初に陸大二三期に合格し入学したのは、この永田中将、小畑中将と、藤岡萬蔵少将、谷実夫少将の四人である。なお、陸大二三期には、陸士一八期の酒井鎬次中将(恩賜)と稲葉四郎中将がいる。
当時私(有末少佐)は第四課の庶務将校であった。柳川課長は、何とかして作戦課長だけには一室を与えたいといって、私に第四課の室割を考えて無理をして(四期も)後輩の小畑さんの為に独立した室を準備させた。
御自分の課はしのんでも、作戦課長の小畑さんの仕事(構想)をしやすく、考えられていた程であった。しかも、一番古参の御自分と十五期の河村大佐と二人は同室にして、中佐の小畑さんを一人の単独の室で執務させられた。こんな美しい話があった。
当時(大正末期)は、いわゆる太平時代であり、金を持っている陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった。
永田さんが動員課長になって、東條さんが陸大教官から軍事課の高級課員になられた時、何かの話の折りに栄転だといって羨ましがった人がいた時、柳川課長は「統帥の大学教官から軍政の仕事に就くのを栄転というそういう時代になったことは誠に嘆かわしい」と嘆息された。
柳川さんという人はこのように、よく筋を通す人だった。こういう人柄を買って荒木さんは、柳川さんを同期の小磯さんに代えて次官にされたのだろう。
これは永田さんの関係ではないが、陸軍省と参謀本部の間にはいろいろと軋轢や不満もあり、それが後の派閥(?)の関係にも影響したのではなかろうか。
例えば皇太子殿下に対する軍事の御前進講という軍事学に関する御教育、御養育係りというのは参謀本部の仕事だった。
それを阿部信行少将(後の大将・首相)が総務部長から軍務局長に代わった時に一緒に持っていかれた。そういう問題が参謀本部、特に作戦系統で問題になって喧しいことがあった。阿部さん(陸士九・陸大一九恩賜)と、荒木さん(陸士九・陸大一九首席)は同期で、ライバル意識が相当にあった。
当時荒木さんが第一部長、小畑さんが第二課長の時でも、いろいろな要求を出すが陸軍省がなかなか承知しない。山東出兵をやるにしても、陸軍省と参謀本部では出兵理論が違うのではないが、いわゆる統帥と政治の関係、政府の予算がものを言うので、参謀本部が圧迫されがちだった。
私(有末少佐)は昭和七年九月十八日、満州の大隊長から陸軍大臣秘書官に転任した。満州事変後の昭和六年、十月事件の後に荒木貞夫中将が陸軍大臣になり、軍務局長には教育畑の山岡重厚少将を抜擢された。