山岡さんは誠に立派な武人ではあるが、政治的なこの職務の任用については、一部部内では意外とされていた。この時、永田さんを軍務局長にしたら良かったのじゃないかという噂を耳にした。
おそらく、小畑さんが山岡さんを推されたのではないかと思うのだが、山岡さんは直情怪行な立派な人だから、きれいな性格の荒木さんと、よく合う。
しかも山下奉文大佐が軍事課長に出てきたのは、同県の高知県出身で山岡さんが使いやすいということもあったし、部内ではすこぶる好評だった。
一番大きな問題は、荒木さんの一の乾分(こぶん)の小畑さんが軍務局長にならずに第三部長になり、山岡さんが軍務局長になった。
それで実際は非常に大事な時ではあるし、いろいろ大きな手を打たねばならぬ時であるから、逸材の小畑さんが軍務局長になればよかった。
しかし、小畑さんは荒木さんの真のブレーントラストとして、参謀本部から直接陸軍大臣官邸へ出入りして補佐していた。
閑院宮が参謀総長になられたのは、荒木さんが陸軍大臣になられた後、満州事変勃発の後で、真崎甚三郎中将を台湾軍司令官から参謀次長に持って来た。
荒木さんは、ああゆう人であるから、若い者とどんどん鷹揚に話をされる。真崎さんは真崎さんで西郷隆盛みたいな恰好をして、含蓄あるものの言い方をされるから若い者は親分のように慕う。
真崎さんは若い者の意見を直ちに取り入れて、人事とか何とかにある程度動かれた。そのために、永田さんが出てくるまで、人事が偏っているという空気があったのは事実だが。
むしろ、かつて参謀本部での永田第二部長と小畑第三部長の対立の方が問題だったが、これを真崎参謀次長は押さえてまとめきれず、結局、喧嘩両成敗で二人とも旅団長に出したのじゃないかと、穿った噂が飛んでいた。
昭和七年八月、陸軍次官・小磯国昭中将が関東軍参謀長に転出、騎兵監・柳川平助中将が陸軍次官に抜擢された。
九月五日に私(有末少佐)は陸軍大臣秘書官に任命された。当時憲兵司令官は秦真次中将で、憲兵情報というのが毎日秘書官室に届けられた。その中に宇垣一成大将攻撃に関するものが相当にあった。
昭和九年一月二日に荒木陸軍大臣が御病気(急性肺炎)で、一月十九日大臣更迭で、林銑十郎教育総監と柳川陸軍次官と私は、小田急線で小田原の閑院宮邸へ向かった。
小田急線は満員ではなかったが、近くの客に気兼ねしたのか、林大将と柳川中将はほとんど一言も話をされず、私は実に重苦しい気分でお伴した。
閑院宮に会われると、林大将は真崎参謀次長を陸軍大臣の後任に推薦された。ところが、閑院宮は、突然大声で「君たちは私に真崎を押し付けるのか。私は真崎を次長に使ってよく知っている。林君、君やりたまえ」と言われた。
林大将は「それでは真崎君を教育総監にお願いします」と返事をして、柳川中将も同意見で、閑院宮もそれには同意した。
この十九日の閑院宮邸における会議の時の空気を、柳川中将から後で聞いた話によると、林さんのあの言い方には、どうも伏線があるような風であったらしいとのことだった。だが、私が隣の部屋で聞いたところでは、林さんは真崎さんを執拗に押しておられた。だが、柳川さんとしては、そういう風に感じたのだろう。
このいきさつが一番、林さんと真崎さんの仲が悪くなってきた始まりじゃないかと思う。つまり事前に閑院宮の方に裏から根回しが行われたとの憶測があった。ライバルとして権力闘争の兆しがあったのではないか。
こういう形で大臣が決まった時に、私は、私の前任の、荒木陸相専任秘書官・前田正実中佐と二人で寿司を食ったことがあった。その時、前田さんは一口も食べず、ハシで寿司を混ぜくり返して怒っていた。そして言った。「あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!」。
その頃は、陸軍大臣は代わっても、秘書官は代わらないのが通常だった。ところが、林さんが陸軍大臣になった時に、前田さんは代わってしまった。
昭和九年三月に林陸軍大臣は永田さんを軍務局長に呼んだわけです。山岡さんは整備局長になった。柳川次官は真崎教育総監の要望もあり、留任となった。山下軍事課長も留任だった。
永田さんが軍務局長になった時、永田軍務局長と柳川次官のとの間は、なんだかうまくいっていないと心配され、その片鱗が出ていた。
おそらく、小畑さんが山岡さんを推されたのではないかと思うのだが、山岡さんは直情怪行な立派な人だから、きれいな性格の荒木さんと、よく合う。
しかも山下奉文大佐が軍事課長に出てきたのは、同県の高知県出身で山岡さんが使いやすいということもあったし、部内ではすこぶる好評だった。
一番大きな問題は、荒木さんの一の乾分(こぶん)の小畑さんが軍務局長にならずに第三部長になり、山岡さんが軍務局長になった。
それで実際は非常に大事な時ではあるし、いろいろ大きな手を打たねばならぬ時であるから、逸材の小畑さんが軍務局長になればよかった。
しかし、小畑さんは荒木さんの真のブレーントラストとして、参謀本部から直接陸軍大臣官邸へ出入りして補佐していた。
閑院宮が参謀総長になられたのは、荒木さんが陸軍大臣になられた後、満州事変勃発の後で、真崎甚三郎中将を台湾軍司令官から参謀次長に持って来た。
荒木さんは、ああゆう人であるから、若い者とどんどん鷹揚に話をされる。真崎さんは真崎さんで西郷隆盛みたいな恰好をして、含蓄あるものの言い方をされるから若い者は親分のように慕う。
真崎さんは若い者の意見を直ちに取り入れて、人事とか何とかにある程度動かれた。そのために、永田さんが出てくるまで、人事が偏っているという空気があったのは事実だが。
むしろ、かつて参謀本部での永田第二部長と小畑第三部長の対立の方が問題だったが、これを真崎参謀次長は押さえてまとめきれず、結局、喧嘩両成敗で二人とも旅団長に出したのじゃないかと、穿った噂が飛んでいた。
昭和七年八月、陸軍次官・小磯国昭中将が関東軍参謀長に転出、騎兵監・柳川平助中将が陸軍次官に抜擢された。
九月五日に私(有末少佐)は陸軍大臣秘書官に任命された。当時憲兵司令官は秦真次中将で、憲兵情報というのが毎日秘書官室に届けられた。その中に宇垣一成大将攻撃に関するものが相当にあった。
昭和九年一月二日に荒木陸軍大臣が御病気(急性肺炎)で、一月十九日大臣更迭で、林銑十郎教育総監と柳川陸軍次官と私は、小田急線で小田原の閑院宮邸へ向かった。
小田急線は満員ではなかったが、近くの客に気兼ねしたのか、林大将と柳川中将はほとんど一言も話をされず、私は実に重苦しい気分でお伴した。
閑院宮に会われると、林大将は真崎参謀次長を陸軍大臣の後任に推薦された。ところが、閑院宮は、突然大声で「君たちは私に真崎を押し付けるのか。私は真崎を次長に使ってよく知っている。林君、君やりたまえ」と言われた。
林大将は「それでは真崎君を教育総監にお願いします」と返事をして、柳川中将も同意見で、閑院宮もそれには同意した。
この十九日の閑院宮邸における会議の時の空気を、柳川中将から後で聞いた話によると、林さんのあの言い方には、どうも伏線があるような風であったらしいとのことだった。だが、私が隣の部屋で聞いたところでは、林さんは真崎さんを執拗に押しておられた。だが、柳川さんとしては、そういう風に感じたのだろう。
このいきさつが一番、林さんと真崎さんの仲が悪くなってきた始まりじゃないかと思う。つまり事前に閑院宮の方に裏から根回しが行われたとの憶測があった。ライバルとして権力闘争の兆しがあったのではないか。
こういう形で大臣が決まった時に、私は、私の前任の、荒木陸相専任秘書官・前田正実中佐と二人で寿司を食ったことがあった。その時、前田さんは一口も食べず、ハシで寿司を混ぜくり返して怒っていた。そして言った。「あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!」。
その頃は、陸軍大臣は代わっても、秘書官は代わらないのが通常だった。ところが、林さんが陸軍大臣になった時に、前田さんは代わってしまった。
昭和九年三月に林陸軍大臣は永田さんを軍務局長に呼んだわけです。山岡さんは整備局長になった。柳川次官は真崎教育総監の要望もあり、留任となった。山下軍事課長も留任だった。
永田さんが軍務局長になった時、永田軍務局長と柳川次官のとの間は、なんだかうまくいっていないと心配され、その片鱗が出ていた。