九月十六日、十七日の二日間、海軍大学校で実施されたハワイ奇襲作戦の図上演習では、基地航空部隊がジャワ島の線に進出するまでに、ゼロ戦が六〇パーセント、陸上攻撃機が四〇パーセント消耗するという、厳しい結果となり、南方作戦においては航空兵力の不足が示された。
九月二十四日、軍令部作戦室で行われた、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議では、次の様な発言がなされた。
第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は次のように発言した。
「成否のカギは敵の不意に乗じて奇襲できるかどうかにある。南方作戦兵力が足りない。むしろ南方に母艦兵力を集中して、すみやかに南方を片付けるのが大局的に有利である」。
だが、第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐は、ハワイ作戦に消極的な上司の草鹿少将と異なる意見を述べた。源田中佐は、ハワイ作戦には極めて積極的であり、次のように述べた。
「敵艦隊が真珠湾に在泊する場合、飛行場制圧には艦爆八一機を振り向ける必要があり、空母に対しては、艦爆五四機を当てるが、それで三隻は大丈夫撃沈できる」
「艦攻全機に水平爆撃をやらせれば、戦艦五隻、あるいは戦艦二、三隻と空母三隻はやれると思う(雷撃は不可能という前提)」
「企画秘匿のため、内地に残る飛行機によって、わが母艦部隊が内地で訓練中であるかのようにカモフラージュをする必要がある。第一、第二航空戦隊は攻撃には自信を持っている」。
航海将校である、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐は、ハワイに至る航海上の難点を、次の様に述べた。
「敵機の哨戒が三〇〇海里(約五五六キロ)ならば航路選定は楽だが、四〇〇海里(約七四〇キロ)以上となると、苦しくなる(飛行機隊発進前に発見される)」
「洋上燃料補給は風速一一メートル以上になると、駆逐艦に対しても困難となり、戦艦や空母への補給はいっそう困難である」。
連合艦隊航空参謀・佐々木彰中佐は、強気そのもので、次の様に主張した。
「南方航路をとるようなら本作戦はやめたほうがよい(機密保持が不可能)。奇襲を論じたらきりがない。むしろ断行すべきである」。
軍令部第一部長・福留繁少将は、ハワイ作戦の成功を危ぶみ、次の様に発言した。
「開戦日は十一月二十日ごろが望ましい(準備のため大幅な延期を希望する連合艦隊側に対して、その後の作戦を考慮して反対した)。巧妙な奇襲は望みがたい。南方地域はどうしても早く手に入れる必要が絶対にある」。
連合艦隊参謀長・宇垣纒少将は、山本五十六司令長官の意を体して、次の様に反論した。
「開戦日を一か月遅らせても、ハワイ作戦をやった方が全般の作戦を進捗させることにならないか」。
結局、作戦採択の決定権を持つ軍令部側は、確信を持てず、ハワイ奇襲作戦採択の決定はなされなかった。
源田実は、この時の討議を、戦後、振り返って次の様に回想している。
「連合艦隊は積極的なのに、第一航空艦隊は消極的、むしろ反対の空気があり、また軍令部は極めて慎重で、意見は一致しなかった。会議後、黒島亀人参謀から『軍議は戦わずですよ』言われたことが、印象深く記憶に残っている」。
だが、討議後、宇垣少将は、福留少将に「山本長官は職を賭してもハワイ作戦を決行する決意だ」と言ったことから、軍令部側は、山本長官の固い決意を知った。
討議が終わり、宇垣少将、黒島大佐、佐々木中佐らが瀬戸内海、岩国沖の柱島泊地のブイに係留されている連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」に帰り、山本五十六長官に報告すると、山本長官は、彼らにバクダンを落とした。
「だいたいお前たちはハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか。誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる。会議などやってもらわなくてよろしい」。
九月二十四日、軍令部作戦室で行われた、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議では、次の様な発言がなされた。
第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は次のように発言した。
「成否のカギは敵の不意に乗じて奇襲できるかどうかにある。南方作戦兵力が足りない。むしろ南方に母艦兵力を集中して、すみやかに南方を片付けるのが大局的に有利である」。
だが、第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐は、ハワイ作戦に消極的な上司の草鹿少将と異なる意見を述べた。源田中佐は、ハワイ作戦には極めて積極的であり、次のように述べた。
「敵艦隊が真珠湾に在泊する場合、飛行場制圧には艦爆八一機を振り向ける必要があり、空母に対しては、艦爆五四機を当てるが、それで三隻は大丈夫撃沈できる」
「艦攻全機に水平爆撃をやらせれば、戦艦五隻、あるいは戦艦二、三隻と空母三隻はやれると思う(雷撃は不可能という前提)」
「企画秘匿のため、内地に残る飛行機によって、わが母艦部隊が内地で訓練中であるかのようにカモフラージュをする必要がある。第一、第二航空戦隊は攻撃には自信を持っている」。
航海将校である、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐は、ハワイに至る航海上の難点を、次の様に述べた。
「敵機の哨戒が三〇〇海里(約五五六キロ)ならば航路選定は楽だが、四〇〇海里(約七四〇キロ)以上となると、苦しくなる(飛行機隊発進前に発見される)」
「洋上燃料補給は風速一一メートル以上になると、駆逐艦に対しても困難となり、戦艦や空母への補給はいっそう困難である」。
連合艦隊航空参謀・佐々木彰中佐は、強気そのもので、次の様に主張した。
「南方航路をとるようなら本作戦はやめたほうがよい(機密保持が不可能)。奇襲を論じたらきりがない。むしろ断行すべきである」。
軍令部第一部長・福留繁少将は、ハワイ作戦の成功を危ぶみ、次の様に発言した。
「開戦日は十一月二十日ごろが望ましい(準備のため大幅な延期を希望する連合艦隊側に対して、その後の作戦を考慮して反対した)。巧妙な奇襲は望みがたい。南方地域はどうしても早く手に入れる必要が絶対にある」。
連合艦隊参謀長・宇垣纒少将は、山本五十六司令長官の意を体して、次の様に反論した。
「開戦日を一か月遅らせても、ハワイ作戦をやった方が全般の作戦を進捗させることにならないか」。
結局、作戦採択の決定権を持つ軍令部側は、確信を持てず、ハワイ奇襲作戦採択の決定はなされなかった。
源田実は、この時の討議を、戦後、振り返って次の様に回想している。
「連合艦隊は積極的なのに、第一航空艦隊は消極的、むしろ反対の空気があり、また軍令部は極めて慎重で、意見は一致しなかった。会議後、黒島亀人参謀から『軍議は戦わずですよ』言われたことが、印象深く記憶に残っている」。
だが、討議後、宇垣少将は、福留少将に「山本長官は職を賭してもハワイ作戦を決行する決意だ」と言ったことから、軍令部側は、山本長官の固い決意を知った。
討議が終わり、宇垣少将、黒島大佐、佐々木中佐らが瀬戸内海、岩国沖の柱島泊地のブイに係留されている連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」に帰り、山本五十六長官に報告すると、山本長官は、彼らにバクダンを落とした。
「だいたいお前たちはハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか。誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる。会議などやってもらわなくてよろしい」。