「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)によると、著者の源田実は、ハワイ作戦の北方航路進撃決定について、次の様に述べている(要旨抜粋)。
昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。
第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。
これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。
「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」
「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」
「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」
「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」
「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」
「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。
この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。
艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。
さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。
源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。
すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。
以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。
ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。
だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。
『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。
そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
以上が、生出寿氏の回想である。
昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。
真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。
昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。
第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。
これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。
「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」
「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」
「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」
「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」
「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」
「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。
この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。
艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。
さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。
源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。
すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。
以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。
ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。
だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。
『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。
そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
以上が、生出寿氏の回想である。
昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。
真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。