「公爵桂太郎伝・乾巻」(徳富蘇峰・故桂公爵記念事業会・大正6年)の第一編、第一章、緒言の冒頭で、徳富猪一郎(蘇峰)は次のように述べている(一部の分かりにくい旧字体は、新字体に変換またはカッコ内で説明しています)。
現時に於いて、公爵桂太郎の伝記を編述せんことは寧ろ大膽(大胆)の業なり。何となれば公の先輩たる伊藤公(伊藤博文)、山縣元帥(山縣有朋)、井上侯(井上馨)等の伝記、未だ世に出でず。
すなわち維新回天の偉業に於ける防長出身者の巨擘(きょはく=巨頭)木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎)の伝記さえも纔(わずか)に著手(ちゃくしゅ=着手)せられたるを聞くも、其の詳なるを知る可からず。
されば山廻り渓轉(けいてん=谷を巡る)し流れに棹(さおさ)して下るの便宜(良い機会)は到底即今(そっこん=只今)に期す可からず。
且つ今日は余りに桂公の在世と接近し、精厳なる歴史的乾光(けんこう→威光)に照らして、其の人物、軍功を品隲(ひんしつ=品定め)するは、頗る困難の業たり。
加うるに公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし看あり。されば蓋棺(かいかん=棺に蓋をする➡人の死)の後と雖も、其の餘焔(よえん=残り火)は尚ほ公の遺骸を取り巻き、未だ容易に消散せず。
此の最中に於いて彼の政友、政敵の両者をして、興(とも=共)に倶(とも=共)に首肯(しゅこう=うなずく)、甘心(かんしん=納得)せしむる公の伝記を編せんとは、若し絶対的不可能の事にあらずとせば、少なくとも之に隣すと云わざるを得ざるべし。
<桂太郎(かつら・たろう)陸軍大将プロフィル>
弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県長門国阿武郡萩字平安胡(現・山口県萩市平安古)川島村出身。幼名は壽熊(ひさくま)で、後に太郎に改めた。長州藩士馬廻役・桂与一右衛門(一二五石)の長男。母は、長州藩士・中谷家(一八〇石)の娘、喜代子。叔父の中谷正亮は松下村塾の出資者。
安政四年(一八五七年)(九歳)岡田玄道について和漢学を修める。安政六年(一八五九年)(十一歳)十月吉田松陰が江戸伝馬町の老屋敷で斬首刑。当時桂太郎は十一歳だったので、松下村塾では学んでいない。
文久元年(一八六一年)(十三歳)西洋銃陣隊に入る。
文久三年(一八六三年)(十五歳)長州藩大組隊に属す。十二月馬関(下関)駐屯、警備の任に就く。文久四年(一八六四年)(十六歳)第二番小隊司令。毛利元徳上京に際し、選鋒隊に属し、随行。
慶応元年(一八六五年)(十七歳)三月干城隊に入り、山口の歩兵塾で学ぶ。五月御小姓を命ぜらる。慶応二年(一八六六年)(十八歳)六月四境戦争に装条銃第二大隊第二番中隊補助長官として出征。中隊長に昇進。山口に帰り、御小姓に復す。藩校・明倫館に入り、文武の学を学ぶ。
慶応三年(一八六七年)(十九歳)十二月藩命により上京。毛利敬親父子官位復旧入洛允許の勅諚をもたらして帰藩。三条実美ら五卿について出京、薩長諸藩の観兵式に参列。
入洛(じゅらく)は、都である京都に入ること。允許(いんきょ)は、許すこと、許可すること。勅諚(ちょくじょう)は、天皇の命令、勅命。
明治元年(一八六八年)(二十歳)一月戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、敵情偵察の任務につく。大阪城襲撃の勅諚を奉じて帰藩。長州藩第五大隊を率いて、世子・毛利元徳について出京。三月小姓役を辞め、第四大隊二番隊司令。その後第二大隊司令として奥州各地を転戦、秋田戦争で戦功を上げる。
明治二年(二十一歳)三月父・桂與一右衛門死去。五月家督相続。六月軍功により賞典禄二五〇石を下賜せらる。八月藩命により仏式陸軍修業のため東京留学。七月第五大隊補助長官。十月横浜語学所入校。
明治三年(二十二歳)横浜語学所を大阪兵学寮に移すため移転。まもなく病と称して退校。七月萩に帰り、海外留学の許可を得る。八月ドイツに留学。明治四年ベルリンでパリース陸軍少将に師事し軍事学を研修。明治六年(二十五歳)十月帰朝。十一月山口県萩に帰省。
明治七年(二十六歳)一月帰京、陸軍歩兵大尉。六月陸軍歩兵少佐。八月母・喜代子死去。明治八年(二十七歳)三月ドイツ駐在公使館附武官。六月弟・二郎と共に横浜出港。ベルリンで軍政を研究。
明治十一年(三十歳)七月帰国、参謀局諜報提理。八月太政官少書記官兼法制局専務。十一月陸軍歩兵中佐。十二月参謀本部管西局長心得。明治十三年(三十二歳)兼太政官大書記官。
明治十五年(三十四歳)二月陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長。明治十七年(三十六歳)一月陸軍卿・大山巌中将欧州派遣に随行。明治十八年(三十七歳)一月帰国。五月陸軍少将、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。明治十九年(三十八歳)三月陸軍次官。明治二十三年(四十二歳)六月陸軍中将。
明治二十四年(四十三歳)六月第三師団長。明治二十七年(四十六歳)八月日清戦争宣戦の詔勅。第三師団に動員令。九月名古屋出発。明治二十八年(四十七歳)六月第三師団名古屋凱旋。
明治二十九年(四十八歳)六月台湾総督。十月台湾総督の辞表提出、東京湾防禦総督。明治三十一年(五十歳)一月陸軍大臣。六月憲政党内閣に留任。九月陸軍大将。十一月山縣(有朋)内閣に留任。
明治三十三年(五十二歳)十二月陸軍大臣辞職。明治三十四年(五十三歳)五月元老会議で首相に推薦され、組閣の大命を拝す。六月内閣総理大臣に任じ、特に現役に列せしめらる。明治三十五年(五十四歳)二月伯爵。
明治三十六年(五十五歳)四月伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎と京都の無鄰菴で会合し、対ロシア方針を決議。七月参内辞表捧呈、留任の命下る。内閣改造。十月内務大臣兼任。
明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争開戦。明治三十八年(五十七歳)七月臨時兼任外務大臣。九月日露戦争終戦。十月臨時兼任外務大臣を免ず。十一月臨時兼任外務大臣、文部大臣兼任。
明治三十九年(五十八歳)一月臨時兼任外務大臣を免ず、内閣総理大臣並びに文部大臣兼任を免ず。軍事参議官。四月大勲位菊花大綬章。明治四十年(五十九歳)九月侯爵。
明治四十一年(六十歳)七月内閣総理大臣兼大蔵大臣。特に現役に列す。明治四十四年(六十三歳)四月公爵。五月拓殖局総裁兼任。八月済生会会長、内閣総辞職。
明治四十五年(六十四歳)七月ヨーロッパ訪問。八月行程を中止し帰朝、内大臣兼侍従長。十一月後備役、日本赤十字社・平井政遒病院長の診断を受ける。十二月内閣総理大臣兼外務大臣。
大正二年(六十五歳)一月外務大臣兼任を免ず。二月立憲同志会宣言書発表、創立委員長就任、山本権兵衛来訪、辞職勧告。内閣総理大臣辞職、元勲の優遇を賜う。三月三浦博士の診察を受ける。六月葉山長雲閣で静養、長男・与一死去、鎌倉山下別荘に転地療養。九月帰京。
十月に入り脳血栓を起こし、十月十日午後四時死去。死因は腹部に広がっていたガンと、頭部動脈血栓。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾。十月十九日芝増上寺で葬儀、会葬者は数千人。墓所は、遺言により松陰神社(東京都世田谷)に隣接して建てられた。
現時に於いて、公爵桂太郎の伝記を編述せんことは寧ろ大膽(大胆)の業なり。何となれば公の先輩たる伊藤公(伊藤博文)、山縣元帥(山縣有朋)、井上侯(井上馨)等の伝記、未だ世に出でず。
すなわち維新回天の偉業に於ける防長出身者の巨擘(きょはく=巨頭)木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎)の伝記さえも纔(わずか)に著手(ちゃくしゅ=着手)せられたるを聞くも、其の詳なるを知る可からず。
されば山廻り渓轉(けいてん=谷を巡る)し流れに棹(さおさ)して下るの便宜(良い機会)は到底即今(そっこん=只今)に期す可からず。
且つ今日は余りに桂公の在世と接近し、精厳なる歴史的乾光(けんこう→威光)に照らして、其の人物、軍功を品隲(ひんしつ=品定め)するは、頗る困難の業たり。
加うるに公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし看あり。されば蓋棺(かいかん=棺に蓋をする➡人の死)の後と雖も、其の餘焔(よえん=残り火)は尚ほ公の遺骸を取り巻き、未だ容易に消散せず。
此の最中に於いて彼の政友、政敵の両者をして、興(とも=共)に倶(とも=共)に首肯(しゅこう=うなずく)、甘心(かんしん=納得)せしむる公の伝記を編せんとは、若し絶対的不可能の事にあらずとせば、少なくとも之に隣すと云わざるを得ざるべし。
<桂太郎(かつら・たろう)陸軍大将プロフィル>
弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県長門国阿武郡萩字平安胡(現・山口県萩市平安古)川島村出身。幼名は壽熊(ひさくま)で、後に太郎に改めた。長州藩士馬廻役・桂与一右衛門(一二五石)の長男。母は、長州藩士・中谷家(一八〇石)の娘、喜代子。叔父の中谷正亮は松下村塾の出資者。
安政四年(一八五七年)(九歳)岡田玄道について和漢学を修める。安政六年(一八五九年)(十一歳)十月吉田松陰が江戸伝馬町の老屋敷で斬首刑。当時桂太郎は十一歳だったので、松下村塾では学んでいない。
文久元年(一八六一年)(十三歳)西洋銃陣隊に入る。
文久三年(一八六三年)(十五歳)長州藩大組隊に属す。十二月馬関(下関)駐屯、警備の任に就く。文久四年(一八六四年)(十六歳)第二番小隊司令。毛利元徳上京に際し、選鋒隊に属し、随行。
慶応元年(一八六五年)(十七歳)三月干城隊に入り、山口の歩兵塾で学ぶ。五月御小姓を命ぜらる。慶応二年(一八六六年)(十八歳)六月四境戦争に装条銃第二大隊第二番中隊補助長官として出征。中隊長に昇進。山口に帰り、御小姓に復す。藩校・明倫館に入り、文武の学を学ぶ。
慶応三年(一八六七年)(十九歳)十二月藩命により上京。毛利敬親父子官位復旧入洛允許の勅諚をもたらして帰藩。三条実美ら五卿について出京、薩長諸藩の観兵式に参列。
入洛(じゅらく)は、都である京都に入ること。允許(いんきょ)は、許すこと、許可すること。勅諚(ちょくじょう)は、天皇の命令、勅命。
明治元年(一八六八年)(二十歳)一月戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、敵情偵察の任務につく。大阪城襲撃の勅諚を奉じて帰藩。長州藩第五大隊を率いて、世子・毛利元徳について出京。三月小姓役を辞め、第四大隊二番隊司令。その後第二大隊司令として奥州各地を転戦、秋田戦争で戦功を上げる。
明治二年(二十一歳)三月父・桂與一右衛門死去。五月家督相続。六月軍功により賞典禄二五〇石を下賜せらる。八月藩命により仏式陸軍修業のため東京留学。七月第五大隊補助長官。十月横浜語学所入校。
明治三年(二十二歳)横浜語学所を大阪兵学寮に移すため移転。まもなく病と称して退校。七月萩に帰り、海外留学の許可を得る。八月ドイツに留学。明治四年ベルリンでパリース陸軍少将に師事し軍事学を研修。明治六年(二十五歳)十月帰朝。十一月山口県萩に帰省。
明治七年(二十六歳)一月帰京、陸軍歩兵大尉。六月陸軍歩兵少佐。八月母・喜代子死去。明治八年(二十七歳)三月ドイツ駐在公使館附武官。六月弟・二郎と共に横浜出港。ベルリンで軍政を研究。
明治十一年(三十歳)七月帰国、参謀局諜報提理。八月太政官少書記官兼法制局専務。十一月陸軍歩兵中佐。十二月参謀本部管西局長心得。明治十三年(三十二歳)兼太政官大書記官。
明治十五年(三十四歳)二月陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長。明治十七年(三十六歳)一月陸軍卿・大山巌中将欧州派遣に随行。明治十八年(三十七歳)一月帰国。五月陸軍少将、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。明治十九年(三十八歳)三月陸軍次官。明治二十三年(四十二歳)六月陸軍中将。
明治二十四年(四十三歳)六月第三師団長。明治二十七年(四十六歳)八月日清戦争宣戦の詔勅。第三師団に動員令。九月名古屋出発。明治二十八年(四十七歳)六月第三師団名古屋凱旋。
明治二十九年(四十八歳)六月台湾総督。十月台湾総督の辞表提出、東京湾防禦総督。明治三十一年(五十歳)一月陸軍大臣。六月憲政党内閣に留任。九月陸軍大将。十一月山縣(有朋)内閣に留任。
明治三十三年(五十二歳)十二月陸軍大臣辞職。明治三十四年(五十三歳)五月元老会議で首相に推薦され、組閣の大命を拝す。六月内閣総理大臣に任じ、特に現役に列せしめらる。明治三十五年(五十四歳)二月伯爵。
明治三十六年(五十五歳)四月伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎と京都の無鄰菴で会合し、対ロシア方針を決議。七月参内辞表捧呈、留任の命下る。内閣改造。十月内務大臣兼任。
明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争開戦。明治三十八年(五十七歳)七月臨時兼任外務大臣。九月日露戦争終戦。十月臨時兼任外務大臣を免ず。十一月臨時兼任外務大臣、文部大臣兼任。
明治三十九年(五十八歳)一月臨時兼任外務大臣を免ず、内閣総理大臣並びに文部大臣兼任を免ず。軍事参議官。四月大勲位菊花大綬章。明治四十年(五十九歳)九月侯爵。
明治四十一年(六十歳)七月内閣総理大臣兼大蔵大臣。特に現役に列す。明治四十四年(六十三歳)四月公爵。五月拓殖局総裁兼任。八月済生会会長、内閣総辞職。
明治四十五年(六十四歳)七月ヨーロッパ訪問。八月行程を中止し帰朝、内大臣兼侍従長。十一月後備役、日本赤十字社・平井政遒病院長の診断を受ける。十二月内閣総理大臣兼外務大臣。
大正二年(六十五歳)一月外務大臣兼任を免ず。二月立憲同志会宣言書発表、創立委員長就任、山本権兵衛来訪、辞職勧告。内閣総理大臣辞職、元勲の優遇を賜う。三月三浦博士の診察を受ける。六月葉山長雲閣で静養、長男・与一死去、鎌倉山下別荘に転地療養。九月帰京。
十月に入り脳血栓を起こし、十月十日午後四時死去。死因は腹部に広がっていたガンと、頭部動脈血栓。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾。十月十九日芝増上寺で葬儀、会葬者は数千人。墓所は、遺言により松陰神社(東京都世田谷)に隣接して建てられた。