陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

582.桂太郎陸軍大将(2)桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた

2017年05月19日 | 桂太郎陸軍大将
 「明治陸軍の三羽烏」とは、川上操六大将、桂太郎大将、児玉源太郎大将の三将軍である。

 川上操六(かわかみ・そうろく)大将は、嘉永元年十一月十一日(一八四八年十二月六日)生まれ。鹿児島県出身。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に薩摩藩十番隊小頭として従軍。維新後陸軍歩兵中尉<二十三歳>。近衛歩兵第三大隊長、参謀局出仕。少佐<二十八歳>、歩兵第一三連隊長心得、中佐<三十歳>、歩兵第一三連隊長。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、近衛歩兵第一連隊長。明治十八年少将<三十七歳>、参謀本部次長。明治二十三年中将<四十二歳>、参謀本部次長。明治二十八年征清総督府参謀長。明治三十一年参謀総長、大将<五十歳>。明治三十二年死去。享年五十一歳。従二位、勲一等旭日桐花大綬章、功二級、子爵。

 桂太郎(かつら・たろう)大将は、弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県出身。四鏡戦争では中隊長、戊辰戦争では第二大隊司令として従軍。維新後ドイツ留学、陸軍歩兵大尉<二十七歳>、少佐<二十七歳>、ドイツ公使館附き武官、中佐<三十歳>。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、大山巌欧州派遣随行。明治十八年少将<三十七歳>、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。陸軍次官。明治二十三年陸軍中将<四十三歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十一年陸軍大臣、陸軍大将<五十歳>。明治三十四年内閣総理大臣。明治四十一年内閣総理大臣。大正二年内閣総理大臣、十月死去。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾、功三級、公爵。

 児玉源太郎(こだま・げんたろう)大将は、嘉永五年二月二十五日(一八五二年四月十四日)生まれ。山口県出身。函館戦争に下士官として従軍。維新後陸軍権曹長<十八歳>。明治四年四月陸軍歩兵准少尉<十九歳>、八月歩兵少尉<十九歳>、九月歩兵中尉<十九歳>。明治五年七月歩兵大尉<二十歳>。大阪鎮台、熊本鎮台、少佐<二十二歳>。熊本鎮台参謀副長、中佐<二十八歳>。明治十六年歩兵大佐<三十一歳>、参謀本部第一局長、陸軍大学校長。明治二十二年少将<三十七歳>、陸軍次官兼陸軍省軍務局長。明治二十九年中将<四十四歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十三年陸軍大臣。内務大臣。文部大臣。参謀本部次長。明治三十七年大将<五十二歳>、満州軍総参謀長。台湾総督、陸軍参謀総長。明治三十九年南満州鉄道創立委員長。七月死去。享年五十四歳。正二位、勲一等旭日大綬章、功一級、子爵。

 「近代日本軍人伝」(松下義男・柏書房・昭和五十一年)によると、軍令の川上操六大将に併称される者は、軍政の桂太郎大将である。

 川上操六大将の陸軍軍令界における功績は卓越して大きく、桂太郎大将の陸軍軍政界における功績は川上操六大将に比肩する程度には至らないにしても、他に彼に優る者の無いほど大きい。

 川上操六大将は、終生軍人として国家に尽くしたが、桂太郎大将は、その半生を、政治家として国家に尽くした。

 その桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた。命名者は東京日日新聞の記者、小野賢一郎だった。

 小野賢一郎(おの・けんいちろう=俳人「小野蕪子」)は、一八八八年七月二日生まれ。福岡県出身。十六歳で小学校準教員検定試験合格。代用教員、毎日電報社記者、東京日日新聞社記者、同社社会部長。日本放送協会文芸部長、同協会業務局次長兼企画部長。高浜虚子らに師事、俳人。日本俳句作家協会常務理事一九四三年二月死去。

 桂太郎が、ニコニコ笑って、ポンと肩を叩き、政治家や財界人を手なずけるのに、巧みだったため、小野賢一郎記者が新聞にそう書いたのが始まりだと言われている。

 だが、桂太郎の、この「ニコポン宰相」については、少し掘り下げて、その人物像を論評している、次のような知識人、作家、文化人がいる。

 【阿部眞之助(あべ・しんのすけ)】明治十七年三月二十九日生まれ。埼玉県出身。少年時代は群馬県富岡市で過ごす。東京帝国大学文学部社会学科卒業。東京日日新聞入社。東京日日新聞主筆。ジャーナリスト、政治評論家、随筆家。NHK会長に就任。昭和三十九年七月九日NHK会長在職中に急死。享年八十歳。富岡市名誉市民。

 著書は、「戦後政治家論―吉田・石橋から岸・池田まで」(文春学藝ライブラリー・平成28年)、「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(文春学藝ライブラリー・平成27年)、「新世と新人」(三省堂・昭和15年)など。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文春学藝ライブラリー・平成27年)所収「桂太郎」の冒頭で、著者の阿部眞之助は次のように記している(一部抜粋)。

 この頃の青年の間には、ヒロポンの使用が広く行われているそうだが、これに似たニコポンという言葉を知っているものは、割合に少ないようである。

 明治から大正にかけて、盛んに用いられた流行語で、毎日の新聞や月々の雑誌などに、出ていないことがなかった。

 この言葉は桂太郎から始まった。彼の妥協的懐柔政策を称して、ニコポン主義といった。

 花柳界の女が、遊客を懐柔するに、「ねえ、あなた」とか何とかいいながら、ニコリと笑って、肩をポンと叩くと、客はたちまちグニャグニャになって、女の意のままに操縦されるようになる。

 桂は、この操縦術の名人だった。彼の一生はニコポン主義をもって終始した。時の勢いが妥協的態度を、余儀なくしたということもあろう。