陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

621.山本権兵衛海軍大将(1)権兵衛は少年時代から人一倍負けん気の強い子供であった

2018年02月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年7月)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、薩摩の士族の風習に生首とりの一番争いがあった。
 
 重罪人の処刑場を取り巻き、首が落ちるか早いか駆け寄って奪い合うのである。目玉をむき出して、まだ血の噴き出している首に手をのばすのは恐ろしいことで、大人でも尻込みする者が多かった。

 だが、権兵衛少年(山本権兵衛・幼名も権兵衛)は、恐れて尻込みすることなく、いつも、一番乗りだった。権兵衛の動きの早さにも、かなう者がいなかった。

 権兵衛は少年時代から人一倍負けん気の強い子供であった。また、何事にも所作が素早く気転が効いたと言われている。

 <山本権兵衛(やまもと・ごんべえ/ごんのひょうえ)海軍大将プロフィル>

 嘉永五年十月十五日(一八五二年十一月二十六日)生まれ。鹿児島県加治屋町出身。薩摩藩士・山本五百助盛眠(いおすけもりたか)の六男。母は常子。

 父の五百助は薩摩藩の右筆(書記)であり、同時槍術の師範役であり、剣道・馬術を極めた文武両道の達人だった。権兵衛が生まれた時、父・五百助は五十歳、後妻の母・常は三十六歳だった。

 権兵衛が生まれたとき、兄が五人(うち先妻の子が一人)、姉が五人(うち先妻の子が一人)だが、早死にした者が多く、兄が二人、姉が三人になっていた。六年後に弟が生まれる。
 
 文久三年(一八六三年)(十一歳)薩英戦争で砲弾運搬などの雑役を行う。藩の造士館や演武間に通う。家庭では読書、習字、武術の練習を行う。

 慶應元年(一八六五年)(十三歳)父・山本山本五百助盛眠が死去。

 慶應三年(一八六七年)(十五歳)薩摩藩の藩兵募集に十八歳と年齢を偽って応募、採用され、薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入される。

 慶應四年(明治元年)(十六歳)一月次兄吉蔵とともに藩兵として鳥羽伏見の戦いに従軍。五月越後に転戦。九月奥羽庄内に進む。十一月帰京、その後帰郷。

 明治二年(十七歳)三月薩摩藩から派遣され東京に遊学。西郷隆盛の紹介で勝海舟の食客となり、海軍を志望。勝海舟から指導を受ける。昌平学と開成所で勉学。五月函館戦争に参加。九月海軍操練所(築地)に入所(薩摩藩推薦)。

 明治三年(十八歳)十一月海軍操練所が海軍兵学寮となる。幼年生徒十五名中に選抜された。後に幼年生徒は予科生徒となる。

 明治五年(二十歳)八月兵学寮本科生徒に進学。明治六年十月征韓問題で西郷隆盛ら職を辞して帰郷。山本権兵衛は直接西郷に会って今後の進路を見極めようと決意。

 明治七年(二十二歳)二月同僚の左近充隼人とともに帰郷し西郷に会う。西郷に海軍が重要と説得され、兵学寮に戻る。十一月海軍兵学寮(海兵二期)卒業、コルベット「筑波」乗組。海軍少尉補、コルベット「筑波」で練習航海(台湾~北米)。

 明治九年(二十四歳)九月海軍兵学校入校。十二月航務研究のためドイツ軍艦「ヴィネタ」号に乗組。明治十年六月少尉。十一月ドイツ軍艦「ライプチヒ」号乗組。明治十一年五月帰国。十二月津沢鹿助の三女、登喜子と結婚。海軍中尉。

 明治十三年(二十八歳)十月コルベット「竜驤」乗組。海軍卿・榎本武陽の非難・排斥運動起こる。山本権兵衛はこれに同調しなかった。

 明治十四年(二十九歳)七月コルベット「浅間」乗組。十月海軍兵学校勤務。十二月大尉。明治十五年三月砲術教授。明治十六年一月コルベット「浅間」副長。

 明治十八年(三十三歳)二月士官教育法取調委員。六月少佐。十一月防護巡洋艦「浪速」副長。イギリスに発注した艦で、引き取りに訪英。

 明治十九年(三十四歳)十月スループ「天城」艦長。京城で清国代表・袁世凱と会見。明治二十年七月海軍大臣伝令使。十月海軍次官・樺山資紀の欧米視察に随行。明治二十一年十月帰国。

 明治二十二年(三十七歳)四月中佐、巡洋艦「高雄」艦長心得。八月大佐、巡洋艦「高雄」艦長。明治二十三年二月、巡洋艦「高雄」は朝鮮に向かい撤桟事件で在鮮邦人の保護に当たる、三月帰国、天皇の御前で事件報告。九月防護巡洋艦「高千穂」艦長。

 明治二十四年(三十九歳)六月海軍大臣官房主事。明治二十五年十一月の第四回帝国議会で、人員整理問題で手腕を発揮、山形有朋、井上馨らに力量を認められた。明治二十七年八月一日日清戦争勃発。九月大本営海軍大臣副官を兼務。