<山本権兵衛(やまもと・ごんべえ/ごんのひょうえ)海軍大将プロフィル・続き>
明治二十八年(四十三歳)三月少将、海軍省軍務局長。明治二十九年海軍大臣西郷従道大将から将来の海軍の国防方針についての諮問に研究答申。
明治三十一年(四十六歳)五月中将。十一月第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任。
明治三十三年(四十八歳)十月伊藤博文内閣海軍大臣(留任)。明治三十四年六月桂太郎内閣海軍大臣(留任)。十二月勲一等旭日大綬章。明治三十五年一月日英同盟成立。二月男爵。
明治三十七年(五十二歳)一月日露協商談判が進展せず、御前会議開催。桂太郎首相の急病で、山本権兵衛海相が内閣を代表する。二月十日ロシアに宣戦布告(日露戦争)。仁川、旅順方面でロシア艦隊を撃破。陸軍も鎮南浦に上陸。六月東郷平八郎とともに海軍大将に任ぜられる。
明治三十八年(五十三歳)一月旅順開城。五月二十七日~二十八日日本海海戦でバルチック艦隊壊滅。八月ウラジオストックの残存ロシア艦隊撃破。アメリカ大統領の講和斡旋。九月講和条件反対の国民大会開催(日比谷公園)・焼打ち事件。九月五日講和条約調印。
明治三十九年(五十四歳)一月桂太郎内閣総辞職、山本権兵衛大将も海相を免ぜられ軍事参議官に補される。四月日露戦争の功により功一級金鵄勲章、勲一等旭日桐花大綬章。
明治四十年(五十五歳)三月伏見宮貞愛親王渡英に随行。五月フランス大統領・フェリエールに謁見、イギリス皇帝に拝謁。六月ドイツ皇帝に拝謁。七月再びイギリス皇帝に拝謁。アメリカに渡りニューヨークで記者会見。ルーズ・ベルト大統領と歓談。八月帰国。九月伯爵。
大正二年(六十一歳)二月二十日第三次桂太郎内閣の後を継いで、内閣総理大臣に就任。山本内閣は行財政の整理を第一に着手。
大正三年(六十二歳)一月シーメンス事件が起き、山本権兵衛首相と斎藤実海相は引責辞任、予備役。大正三年度の予算が成立せず、三月二十四日山本権兵衛内閣総辞職。第一次欧州大戦勃発、八月日本もドイツに宣戦布告。
大正十一年(七十歳)十月海軍退役。
大正十二年(七十一歳)八月加藤友三郎首相死去。山本権兵衛に後継内閣の大命降下。九月一日組閣準備中に関東大震災起こる。九月二日第二次山本権兵衛内閣成立。十二月二十七日第四十八回通常帝国議会開院式に行啓の摂政宮御召車に対し、難波大助の発砲事件(虎の門不敬事件)起こる。山本権兵衛内閣は引責総辞職の辞表提出。留任慰撫されるも重ねて辞表奉呈。
大正十三年(七十二歳)一月七日付で依願免官となり、前官の礼遇を賜う。大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御の時、特に許されて拝訣申し上ぐ。
昭和三年(七十六歳)十一月大勲位菊花大綬章。昭和六年一月八十歳の高齢に付、特に宮中より御紋付銀盃、酒肴料、宮中杖を下賜さる。
昭和八年(八十一歳)三月登喜子夫人逝去(七十四歳)。十二月八日山本権兵衛は危篤に陥り天皇から高橋侍医を差向けらる。同日午後十時五十二分死去。享年八十一歳。九日従一位、大勲位菊花章頸飾。二十二日青山斎場で海軍葬。
「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年7月)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、山本権兵衛は、嘉永五年十月十五日(一八五二年十一月二十六日)、薩摩国鹿児島郡鹿児島加治屋町に生まれた。
島津藩主の城下町鹿児島の一郭である。加治屋町は下級藩士の住居地だった。ところがこの加治屋町の貧乏士族の中から人材雲のごとく輩出した。次のような多士済々である。
西郷隆盛(さいごう・たかもり・一八二八年生・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)。
牧野信顕(まきの・のぶあき・一八六一年生・鹿児島・渡米・開成学校・東京大学中退・外務省入省・法制局参事官・黒田清隆首相秘書官・福井県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・農商務大臣・枢密顧問官・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権大使・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・日本棋院初代総裁・従一位・旭日桐花大綬章)。
大久保利通(おおくぼ・としみち・一八三〇年生・鹿児島・藩校造士館・藩記録所役助・徒目付・勘定方小頭格・御小納戸役・御小納戸頭取・久光側近・三藩盟約・明治新政府参議・大蔵卿・初代内務卿・西南戦争で政府軍を指揮・暗殺される・従一位・勲一等旭日大綬章・麻生太郎は玄孫)。
明治二十八年(四十三歳)三月少将、海軍省軍務局長。明治二十九年海軍大臣西郷従道大将から将来の海軍の国防方針についての諮問に研究答申。
明治三十一年(四十六歳)五月中将。十一月第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任。
明治三十三年(四十八歳)十月伊藤博文内閣海軍大臣(留任)。明治三十四年六月桂太郎内閣海軍大臣(留任)。十二月勲一等旭日大綬章。明治三十五年一月日英同盟成立。二月男爵。
明治三十七年(五十二歳)一月日露協商談判が進展せず、御前会議開催。桂太郎首相の急病で、山本権兵衛海相が内閣を代表する。二月十日ロシアに宣戦布告(日露戦争)。仁川、旅順方面でロシア艦隊を撃破。陸軍も鎮南浦に上陸。六月東郷平八郎とともに海軍大将に任ぜられる。
明治三十八年(五十三歳)一月旅順開城。五月二十七日~二十八日日本海海戦でバルチック艦隊壊滅。八月ウラジオストックの残存ロシア艦隊撃破。アメリカ大統領の講和斡旋。九月講和条件反対の国民大会開催(日比谷公園)・焼打ち事件。九月五日講和条約調印。
明治三十九年(五十四歳)一月桂太郎内閣総辞職、山本権兵衛大将も海相を免ぜられ軍事参議官に補される。四月日露戦争の功により功一級金鵄勲章、勲一等旭日桐花大綬章。
明治四十年(五十五歳)三月伏見宮貞愛親王渡英に随行。五月フランス大統領・フェリエールに謁見、イギリス皇帝に拝謁。六月ドイツ皇帝に拝謁。七月再びイギリス皇帝に拝謁。アメリカに渡りニューヨークで記者会見。ルーズ・ベルト大統領と歓談。八月帰国。九月伯爵。
大正二年(六十一歳)二月二十日第三次桂太郎内閣の後を継いで、内閣総理大臣に就任。山本内閣は行財政の整理を第一に着手。
大正三年(六十二歳)一月シーメンス事件が起き、山本権兵衛首相と斎藤実海相は引責辞任、予備役。大正三年度の予算が成立せず、三月二十四日山本権兵衛内閣総辞職。第一次欧州大戦勃発、八月日本もドイツに宣戦布告。
大正十一年(七十歳)十月海軍退役。
大正十二年(七十一歳)八月加藤友三郎首相死去。山本権兵衛に後継内閣の大命降下。九月一日組閣準備中に関東大震災起こる。九月二日第二次山本権兵衛内閣成立。十二月二十七日第四十八回通常帝国議会開院式に行啓の摂政宮御召車に対し、難波大助の発砲事件(虎の門不敬事件)起こる。山本権兵衛内閣は引責総辞職の辞表提出。留任慰撫されるも重ねて辞表奉呈。
大正十三年(七十二歳)一月七日付で依願免官となり、前官の礼遇を賜う。大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御の時、特に許されて拝訣申し上ぐ。
昭和三年(七十六歳)十一月大勲位菊花大綬章。昭和六年一月八十歳の高齢に付、特に宮中より御紋付銀盃、酒肴料、宮中杖を下賜さる。
昭和八年(八十一歳)三月登喜子夫人逝去(七十四歳)。十二月八日山本権兵衛は危篤に陥り天皇から高橋侍医を差向けらる。同日午後十時五十二分死去。享年八十一歳。九日従一位、大勲位菊花章頸飾。二十二日青山斎場で海軍葬。
「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年7月)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、山本権兵衛は、嘉永五年十月十五日(一八五二年十一月二十六日)、薩摩国鹿児島郡鹿児島加治屋町に生まれた。
島津藩主の城下町鹿児島の一郭である。加治屋町は下級藩士の住居地だった。ところがこの加治屋町の貧乏士族の中から人材雲のごとく輩出した。次のような多士済々である。
西郷隆盛(さいごう・たかもり・一八二八年生・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)。
牧野信顕(まきの・のぶあき・一八六一年生・鹿児島・渡米・開成学校・東京大学中退・外務省入省・法制局参事官・黒田清隆首相秘書官・福井県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・農商務大臣・枢密顧問官・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権大使・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・日本棋院初代総裁・従一位・旭日桐花大綬章)。
大久保利通(おおくぼ・としみち・一八三〇年生・鹿児島・藩校造士館・藩記録所役助・徒目付・勘定方小頭格・御小納戸役・御小納戸頭取・久光側近・三藩盟約・明治新政府参議・大蔵卿・初代内務卿・西南戦争で政府軍を指揮・暗殺される・従一位・勲一等旭日大綬章・麻生太郎は玄孫)。