続いて青木公使は、日本海軍の命令を伝達した。山本少尉ら八名はドイツ海軍の新造艦「ライプチッヒ」に乗組むことを命ぜられた。彼らは「ライプチッヒ」に乗組み実習を行った。
明治十一年三月、山本少尉ら八人は、「ライプチッヒ」を退艦し、帰国の途についた。五月六日、横浜港に帰着した。
五月二十五日、山本権兵衛少尉は、近く英国から回航されてくる新造の甲鉄コルベット「扶桑」(三七一七トン)乗組みを命ぜられた。
八月十六日、横須賀に停泊中の甲鉄コルベット「扶桑」に、英国で七年間船乗り修業をした東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中尉(鹿児島・英国商船学校・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「浪速」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・訪英・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)が着任した。
東郷中尉(三十歳)と山本少尉(二十六歳)は少年時代から顔見知りだったが、勤務を共にするのはこれが初めてだった。
間もなく、英国帰りの東郷中尉が時々英語の命令を出して、水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した。
「英語の命令は止めた方がよか思めもすが」。すると東郷中尉は「英語も命令は命令ごわんそ」と平然と答えた。
この強情な相手に、山本少尉は戦法を変えて、「リッキング(マストに取り付けられた縄梯子)の昇降競争をやいもはんか」と提案すると、」「どげんすっと」と東郷中尉は質問をした。
「早く甲板に着いたが勝ちで、その意見に従うちゅうのはどげじゃろ」と山本少尉が説明すると、「よかごわんそ」と東郷中尉は、挑戦を受けた。
二人は作業服に着替え、士官連中が観戦する中で、競争することにした。
煙突後方のメインマストには、何人もが一度に昇り降りできる幅広い縄梯子が取り付けられていて、東郷中尉は左舷側から、山本少尉は右舷側から昇ることになった。
判定係士官の合図で、二人は昇り始めたが、山本少尉がサルなら、東郷中尉はナマケモノのようだった。山本少尉が甲板に降り立った時、東郷中尉はまだ下りの半分にもかかっていなかった。
ようやく甲板におりてきた東郷中尉に、山本少尉が「おいの勝ちじゃ」と声をかけた。ところが東郷中尉は兜を脱がず、「いや、負けちゃおいもはんど、おいはズボンが破れもうした。そいで遅れただけじゃ」と反論して、何かに引っ掛けて破ったらしいズタズタのズボンを指さした。
山本少尉はじめ見物の士官連中は、東郷中尉の負け嫌いにあきれ、笑い出した。
しかし、東郷中尉は、約束通り、その後は英語の命令を出さなくなった。英語と日本語の対訳命令メモを作り、分からなくなると、メモを見て日本語の命令を出していた。
山本少尉は、東郷中尉の不屈の闘志と、誠実な性格に感服した。
明治十一年十月二十三日、東郷平八郎中尉(三十歳)は、芝田町の尾張屋で、薩摩藩の先輩、奈良県令・海江田信義の長女、テツ(十七歳)と結婚式を挙げた。
およそ二か月後の、十二月十六日、山本権兵衛少尉(二十六歳)は、箸屋から身請けした、津沢鹿助の三女、トキ(十九歳)と結婚した。山本権兵衛少尉の妻となったトキは、登喜子と改名した。
結婚直後の明治十一年十二月二十七日、山本権兵衛少尉は中尉に昇進した。
明治十二年四月九日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校の練習艦「乾行」乗組みを命ぜられた。生徒たちに運用術と砲術を教えることになった。
四月十八日、明治維新後、初めての国産の軍艦「清輝」(八九七トン)が、ヨーロッパ方面を回り、二六三〇〇海里という大記録を樹立して、横浜港に帰って来た。
乗組員は、艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)以下一五〇人だった。
明治十一年三月、山本少尉ら八人は、「ライプチッヒ」を退艦し、帰国の途についた。五月六日、横浜港に帰着した。
五月二十五日、山本権兵衛少尉は、近く英国から回航されてくる新造の甲鉄コルベット「扶桑」(三七一七トン)乗組みを命ぜられた。
八月十六日、横須賀に停泊中の甲鉄コルベット「扶桑」に、英国で七年間船乗り修業をした東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中尉(鹿児島・英国商船学校・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「浪速」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・訪英・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)が着任した。
東郷中尉(三十歳)と山本少尉(二十六歳)は少年時代から顔見知りだったが、勤務を共にするのはこれが初めてだった。
間もなく、英国帰りの東郷中尉が時々英語の命令を出して、水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した。
「英語の命令は止めた方がよか思めもすが」。すると東郷中尉は「英語も命令は命令ごわんそ」と平然と答えた。
この強情な相手に、山本少尉は戦法を変えて、「リッキング(マストに取り付けられた縄梯子)の昇降競争をやいもはんか」と提案すると、」「どげんすっと」と東郷中尉は質問をした。
「早く甲板に着いたが勝ちで、その意見に従うちゅうのはどげじゃろ」と山本少尉が説明すると、「よかごわんそ」と東郷中尉は、挑戦を受けた。
二人は作業服に着替え、士官連中が観戦する中で、競争することにした。
煙突後方のメインマストには、何人もが一度に昇り降りできる幅広い縄梯子が取り付けられていて、東郷中尉は左舷側から、山本少尉は右舷側から昇ることになった。
判定係士官の合図で、二人は昇り始めたが、山本少尉がサルなら、東郷中尉はナマケモノのようだった。山本少尉が甲板に降り立った時、東郷中尉はまだ下りの半分にもかかっていなかった。
ようやく甲板におりてきた東郷中尉に、山本少尉が「おいの勝ちじゃ」と声をかけた。ところが東郷中尉は兜を脱がず、「いや、負けちゃおいもはんど、おいはズボンが破れもうした。そいで遅れただけじゃ」と反論して、何かに引っ掛けて破ったらしいズタズタのズボンを指さした。
山本少尉はじめ見物の士官連中は、東郷中尉の負け嫌いにあきれ、笑い出した。
しかし、東郷中尉は、約束通り、その後は英語の命令を出さなくなった。英語と日本語の対訳命令メモを作り、分からなくなると、メモを見て日本語の命令を出していた。
山本少尉は、東郷中尉の不屈の闘志と、誠実な性格に感服した。
明治十一年十月二十三日、東郷平八郎中尉(三十歳)は、芝田町の尾張屋で、薩摩藩の先輩、奈良県令・海江田信義の長女、テツ(十七歳)と結婚式を挙げた。
およそ二か月後の、十二月十六日、山本権兵衛少尉(二十六歳)は、箸屋から身請けした、津沢鹿助の三女、トキ(十九歳)と結婚した。山本権兵衛少尉の妻となったトキは、登喜子と改名した。
結婚直後の明治十一年十二月二十七日、山本権兵衛少尉は中尉に昇進した。
明治十二年四月九日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校の練習艦「乾行」乗組みを命ぜられた。生徒たちに運用術と砲術を教えることになった。
四月十八日、明治維新後、初めての国産の軍艦「清輝」(八九七トン)が、ヨーロッパ方面を回り、二六三〇〇海里という大記録を樹立して、横浜港に帰って来た。
乗組員は、艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)以下一五〇人だった。