真崎甚三郎中将が参謀本部を離れるに際して、もっとも心痛したのは、当時、省部会議の結論である仮想敵国の問題をめぐる、次の二人の対立がことごとに激化して、今やその極点に達しようとしていたことであった。
参謀本部第二部長・永田鉄山(ながた・てつざん)少将(長野・陸士一六首席・陸大二三次席・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年相沢三郎中佐に斬殺される・享年五十一歳・中将)。
参謀本部第三部長・小畑敏四郎(おばた・とししろう)少将(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・歩兵学校研究主事・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年死去・享年六十一歳・ロシア神聖アンナ釼付第二等勲章)。
永田鉄山中将と小畑敏四郎中将は、岡村寧次(おかむら・やすじ)大将(陸士一六・陸大二五・支那駐在・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・上海派遣軍参謀副長・少将・軍事調査委員長・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・代一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・第六方面軍司令官・支那派遣軍司令官・戦後日本郷友連盟会長・昭和四十一年死去・享年八十二歳・勲一等旭日大綬章・功一級)とともに、陸士官学校一六期の同期で、「陸軍三羽烏」と呼ばれていた。
大正十年十月、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐、参謀本部部員・岡村寧次少佐は、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンで、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行い固い結束を誓い合った。翌日には、ドイツ駐在武官・東條英機少佐も加わった。
永田鉄山少佐と小畑敏四郎少佐は、固い結束で同志として順調に陸軍中枢を歩んできたが、小畑敏四郎大佐が真崎甚三郎中将の腹心として皇道派の中核と目されるようになった頃から、永田鉄山大佐と亀裂が生じてきた。
参謀本部第二部長・永田鉄山少将と参謀本部第三部長・小畑敏四郎少将は対支那、対ソ連戦略を巡って鋭く対立するようになった。
特に、昭和八年六月の陸軍全幕僚会議において、対ソ準備を説く小畑少将に対して、永田少将は対支一撃論を主張して譲らず、大激論になった。
この論争が、皇道派と統制派確執の発端となり、以後両派は激しく対立するようになった。その対立は、やがて、昭和十一年二月二十六日の二・二六事件まで引き起こすことになる。
真崎甚三郎中将は、昭和八年八月の定期異動で参謀本部を離れるにあたり、永田少将と小畑少将の対立を深く憂いた。
当時の陸軍大臣は、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・ハルピン特務機関・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・軍事参議官・予備役・文部大臣・内閣参議・終戦・昭和四十一年死去・享年八十九歳・男爵・従二位・勲一等・ペルーソレイユ勲章グランクロア)だった。
真崎中将は陸軍大臣・荒木中将に「僕のいる間はどうにか納まっていたが、自分が去った後の両者の関係は心配だから、何とか代えて欲しい」と要請した。
そこで陸軍大臣・荒木中将は、参謀本部の部長の大部を更迭することにし、喧嘩両成敗の意味もあって、永田少将は歩兵第一旅団長、小畑少将は近衛歩兵第一旅団長に転出させた。また、総務部長・梅津少将を参謀本部附として待機の姿勢をとらせた。
梅津少将の後任の総務部長は、橋本虎之助(はしもと・とらのすけ)少将(愛知・陸士一四・陸大二二・一三番・在ロシア大使館附武官・騎兵大佐・騎兵第二五連隊長・参謀本部欧米課長・東京警備参謀長・少将・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長・予備役・満州国参議府議長・満州国祭祀府総裁・終戦・ロシアに逮捕・昭和二十七年ハルピンで病死・享年六十八歳)を就任させた。
総務部長時代の梅津少将は、永田、小畑両少将の華々しい対立抗争の影にかくれ、地味な性格も手伝ってか、「梅津さんは影が薄いようだ」とささやく者もいた。
梅津少将としては、この両者の抗争を、国軍のため、苦々しく思っていたが、超然としてこの抗争の圏外に立っていた。
参謀本部第二部長・永田鉄山(ながた・てつざん)少将(長野・陸士一六首席・陸大二三次席・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年相沢三郎中佐に斬殺される・享年五十一歳・中将)。
参謀本部第三部長・小畑敏四郎(おばた・とししろう)少将(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・歩兵学校研究主事・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年死去・享年六十一歳・ロシア神聖アンナ釼付第二等勲章)。
永田鉄山中将と小畑敏四郎中将は、岡村寧次(おかむら・やすじ)大将(陸士一六・陸大二五・支那駐在・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・上海派遣軍参謀副長・少将・軍事調査委員長・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・代一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・第六方面軍司令官・支那派遣軍司令官・戦後日本郷友連盟会長・昭和四十一年死去・享年八十二歳・勲一等旭日大綬章・功一級)とともに、陸士官学校一六期の同期で、「陸軍三羽烏」と呼ばれていた。
大正十年十月、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐、参謀本部部員・岡村寧次少佐は、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンで、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行い固い結束を誓い合った。翌日には、ドイツ駐在武官・東條英機少佐も加わった。
永田鉄山少佐と小畑敏四郎少佐は、固い結束で同志として順調に陸軍中枢を歩んできたが、小畑敏四郎大佐が真崎甚三郎中将の腹心として皇道派の中核と目されるようになった頃から、永田鉄山大佐と亀裂が生じてきた。
参謀本部第二部長・永田鉄山少将と参謀本部第三部長・小畑敏四郎少将は対支那、対ソ連戦略を巡って鋭く対立するようになった。
特に、昭和八年六月の陸軍全幕僚会議において、対ソ準備を説く小畑少将に対して、永田少将は対支一撃論を主張して譲らず、大激論になった。
この論争が、皇道派と統制派確執の発端となり、以後両派は激しく対立するようになった。その対立は、やがて、昭和十一年二月二十六日の二・二六事件まで引き起こすことになる。
真崎甚三郎中将は、昭和八年八月の定期異動で参謀本部を離れるにあたり、永田少将と小畑少将の対立を深く憂いた。
当時の陸軍大臣は、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・ハルピン特務機関・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・軍事参議官・予備役・文部大臣・内閣参議・終戦・昭和四十一年死去・享年八十九歳・男爵・従二位・勲一等・ペルーソレイユ勲章グランクロア)だった。
真崎中将は陸軍大臣・荒木中将に「僕のいる間はどうにか納まっていたが、自分が去った後の両者の関係は心配だから、何とか代えて欲しい」と要請した。
そこで陸軍大臣・荒木中将は、参謀本部の部長の大部を更迭することにし、喧嘩両成敗の意味もあって、永田少将は歩兵第一旅団長、小畑少将は近衛歩兵第一旅団長に転出させた。また、総務部長・梅津少将を参謀本部附として待機の姿勢をとらせた。
梅津少将の後任の総務部長は、橋本虎之助(はしもと・とらのすけ)少将(愛知・陸士一四・陸大二二・一三番・在ロシア大使館附武官・騎兵大佐・騎兵第二五連隊長・参謀本部欧米課長・東京警備参謀長・少将・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長・予備役・満州国参議府議長・満州国祭祀府総裁・終戦・ロシアに逮捕・昭和二十七年ハルピンで病死・享年六十八歳)を就任させた。
総務部長時代の梅津少将は、永田、小畑両少将の華々しい対立抗争の影にかくれ、地味な性格も手伝ってか、「梅津さんは影が薄いようだ」とささやく者もいた。
梅津少将としては、この両者の抗争を、国軍のため、苦々しく思っていたが、超然としてこの抗争の圏外に立っていた。