陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

669.梅津美治郎陸軍大将(9)梅津中将は「鈴木君はどこかに変えて、ぜひ重田を姫路にやってくれ」と執拗にねばった

2019年01月17日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その部分を自ら再考三考すると共に、なり振りかまわず尋ね回ってようやく自信を得、命令案を直して持って行ったら直ぐ判を押して、「苦労したな」と言われた。

 頭の冴えと軍令、軍政に一番詳しい方とは洩れ聞いてはいたが、「こちらの自信のない所がどうして分かるのか」と、不審とともに畏敬の念に打たれた。

 寒稽古納めで、司令部の将校が紅白に分かれ、勝ち抜き試合をした。後から四番目にいた鈴木が、半分より前の敵と対戦することになった。

 飛び込んでの面や胴で敵の全員を倒し、命ぜられて味方の残りにも勝ってしまったら、梅津閣下が大谷智子お裏方からもらわれた袱紗を賞として頂戴し、家に送った。仏教信者の母は大喜びして家宝にすると言ってきた。

 お目にかかったついでにこの事を報告して御礼申し上げたら、「それは良かったな。お前も案外やるんだな」とニコヤカに言われた温顔は、今に忘れられない。

 昭和十年八月一日、支那駐屯軍司令官として北支に勤務すること一年四か月で、梅津美治郎中将(昭和九年八月一日進級)は、仙台の第二師団長に親補された。

 昭和十一年初頭、参謀本部庶務課高級部員・富永恭次(とみなが・きょうじ)中佐(長崎・陸士二五・陸大三五・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年死去・享年六十八歳・功三級)が第二師団司令部に出張した。

 富永中佐は、参謀人事についての連絡のため仙台に出張してきたのだ。第二師団長・梅津中将は、富永中佐に、一つの要望を出した。

 それは、第二師団高級参謀・重田徳松(しげた・とくまつ)砲兵中佐(千葉・陸士二四・陸大三五・野砲第一〇連隊長・砲兵大佐・第六師団参謀長・少将・野重砲第一旅団長・野砲兵学校長・中将・第三五師団長・砲兵監・第七二師団長・第五二軍司令官・昭和三十四年死去・享年六十八歳・功三級)についてだった。

 当時、重田中佐は体をこわしており、梅津中将は、「重田中佐を、ぜひとも気候の良い所へ転出させることはできないか」と富永中佐に要望したのだ。

 富永中佐は「気候がよくて野砲兵連隊長の空く予定は姫路(野砲第一〇連隊長)しかありませんが、そこにはすでに予定者がいますので、これを他に転ずることは難しゅうございます」と率直に答えた。

 姫路への転出予定者は、参謀本部作戦課長・鈴木率道(すずき・よりみち)大佐(広島・陸士二二・陸大三〇首席・フランス駐在・陸軍大学校教官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・支那駐屯砲兵連隊長・少将・第二軍参謀長・航空本部総務部長・中将・兼航空総監部総務部長・兼航空本部第一部長・航空総監代理兼航空本部長代理・航空兵団司令官・第二航空軍司令官・予備役・昭和十八年死去・享年五十三歳・従三位・勲一等・功三級)だった。

 ところが、富永中佐から、「野砲連隊長のポストは、難しゅうございます」と言われても、今回は、梅津中将は、なかなか後に退かなかった。

 梅津中将は「鈴木君はどこかに変えて、ぜひ重田を姫路にやってくれ」と執拗にねばった。そして富永中佐に同意させようとした。

 富永中佐も、困ってしまったが、その場は引き下がらざるを得なかった。だが、丁度、その直後、天津に野砲連隊が新設された。

 それで、鈴木大佐は天津に、重田中佐は姫路に行くことに決定された。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件突発当時、有末精三少佐は陸軍省軍務局課員として、九段の九段の憲兵司令部に屯(たむ)ろしていた。

 有末少佐の主務は、外国関係であったが、治安、戒厳、警備等主任の軍事課員と同室だったので、自然当時の雰囲気、状況、処置などを知り得た。

 宮中に在る陸軍大臣やこれを取り巻く軍事参議官等の蹶起動機に関する同情や、皇軍相撃を起こさないかの杞憂等による各種の布告、命令の齟齬やデリケートな各種説得工作の経緯など、統帥命令のスッキリした発動までに相当の時間を空費したのは事実だった。