少佐進級が、南次郎大尉が明治三十八年三月、野村吉三郎大尉が明治四十一年九月。
中佐進級は、南次郎少佐が明治四十三年二月、野村吉三郎少佐が大正二年十二月。
大佐進級は、南次郎中佐が大正四年八月、野村吉三郎中佐が、大正六年四月。
少将進級は、南次郎大佐が大正八年七月、野村吉三郎大佐が大正十一年六月。
軍令部次長には、野村吉三郎少将が大正十五年七月、参謀次長には、南次郎陸軍中将が昭和二年三月になっている。
中将進級は、南次郎少将が大正八年七月、野村吉三郎少将が大正十五年十二月。
朝鮮軍司令官に、南次郎中将が昭和四年八月、呉鎮守府司令長官に、野村吉三郎中将が昭和五年六月。
大将進級は、南次郎中将が昭和五年三月、野村吉三郎中将が昭和八年三月。
陸軍大臣に、南次郎大将が昭和六年四月、第三艦隊司令長官に、野村吉三郎中将が昭和七年二月。
関東軍司令官に、南次郎大将が昭和九年十二月、軍事参議官に、野村吉三郎大将が昭和八年十一月。
予備役編入は、南次郎大将が昭和十一年四月、野村吉三郎大将が昭和十二年四月。
予備役編入後、南次郎大将は、朝鮮総督、枢密顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁を歴任。終戦後A級戦犯で終身禁固刑。昭和二十九年仮出獄後、昭和三十年十二月死去。享年八十一歳。
予備役編入後、野村吉三郎大将は、学習院長、外務大臣、在米国特命全権大使(太平洋戦争開戦時)、枢密顧問官を歴任。終戦後、公職追放。日本ビクター社長、参議院議員。昭和三十九年五月死去。享年八十六歳。
「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、野村吉三郎大尉は、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)沈没後、しばらくの間、佐世保鎮守府附となり、その間に旅順は陥落してしまった。
明治三十八年一月、野村吉三郎大尉は、特務艦「京城丸」(一二〇七トン)の航海長に補された。
特務艦「京城丸」は、大阪商船の貨客船(朝鮮航路)だったが、明治三十七年日本帝国海軍が特務艦として徴用し、連合艦隊に付属した。
その後、大正五年、特務艦「京城丸」は北日本汽船(小樽)に売却され、樺太航路に就航した。
明治三十八年五月二十七日から二十八日にかけて、日本帝国海軍の連合艦隊と、ロシア帝国海軍のバルチィック艦隊の間で、日本海海戦が行われた。
戦力は、日本帝国海軍の連合艦隊が、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦一五隻、その他艦艇八一隻の合計一〇八隻。
ロシア帝国海軍のバルチック艦隊が、戦艦八隻、海防戦艦三隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、その他艦艇一六隻の合計三八隻。
損害は、日本帝国海軍の連合艦隊が、水雷艇三隻沈没だけだった。戦死者は一一七名、戦傷者は五八三名だった。
ロシア帝国海軍のバルチック艦隊は、二一隻が沈没、日本帝国海軍に拿捕されたのが六隻、中立国に抑留されたのが六隻で、ほぼ全滅だった。戦死者四八三〇名、捕虜六一〇六名だった。
野村吉三郎大尉が乗組みの特務艦「京城丸」(一二〇七トン)は、朝鮮海峡南方の哨戒訓練に従事した。五月二十七日の日本海海戦には、野村吉三郎大尉は哨戒任務で参加、地味な任務だった。
中佐進級は、南次郎少佐が明治四十三年二月、野村吉三郎少佐が大正二年十二月。
大佐進級は、南次郎中佐が大正四年八月、野村吉三郎中佐が、大正六年四月。
少将進級は、南次郎大佐が大正八年七月、野村吉三郎大佐が大正十一年六月。
軍令部次長には、野村吉三郎少将が大正十五年七月、参謀次長には、南次郎陸軍中将が昭和二年三月になっている。
中将進級は、南次郎少将が大正八年七月、野村吉三郎少将が大正十五年十二月。
朝鮮軍司令官に、南次郎中将が昭和四年八月、呉鎮守府司令長官に、野村吉三郎中将が昭和五年六月。
大将進級は、南次郎中将が昭和五年三月、野村吉三郎中将が昭和八年三月。
陸軍大臣に、南次郎大将が昭和六年四月、第三艦隊司令長官に、野村吉三郎中将が昭和七年二月。
関東軍司令官に、南次郎大将が昭和九年十二月、軍事参議官に、野村吉三郎大将が昭和八年十一月。
予備役編入は、南次郎大将が昭和十一年四月、野村吉三郎大将が昭和十二年四月。
予備役編入後、南次郎大将は、朝鮮総督、枢密顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁を歴任。終戦後A級戦犯で終身禁固刑。昭和二十九年仮出獄後、昭和三十年十二月死去。享年八十一歳。
予備役編入後、野村吉三郎大将は、学習院長、外務大臣、在米国特命全権大使(太平洋戦争開戦時)、枢密顧問官を歴任。終戦後、公職追放。日本ビクター社長、参議院議員。昭和三十九年五月死去。享年八十六歳。
「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、野村吉三郎大尉は、防護巡洋艦「済遠」(二四四〇トン・乗員二〇〇名)沈没後、しばらくの間、佐世保鎮守府附となり、その間に旅順は陥落してしまった。
明治三十八年一月、野村吉三郎大尉は、特務艦「京城丸」(一二〇七トン)の航海長に補された。
特務艦「京城丸」は、大阪商船の貨客船(朝鮮航路)だったが、明治三十七年日本帝国海軍が特務艦として徴用し、連合艦隊に付属した。
その後、大正五年、特務艦「京城丸」は北日本汽船(小樽)に売却され、樺太航路に就航した。
明治三十八年五月二十七日から二十八日にかけて、日本帝国海軍の連合艦隊と、ロシア帝国海軍のバルチィック艦隊の間で、日本海海戦が行われた。
戦力は、日本帝国海軍の連合艦隊が、戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、巡洋艦一五隻、その他艦艇八一隻の合計一〇八隻。
ロシア帝国海軍のバルチック艦隊が、戦艦八隻、海防戦艦三隻、装甲巡洋艦三隻、巡洋艦六隻、その他艦艇一六隻の合計三八隻。
損害は、日本帝国海軍の連合艦隊が、水雷艇三隻沈没だけだった。戦死者は一一七名、戦傷者は五八三名だった。
ロシア帝国海軍のバルチック艦隊は、二一隻が沈没、日本帝国海軍に拿捕されたのが六隻、中立国に抑留されたのが六隻で、ほぼ全滅だった。戦死者四八三〇名、捕虜六一〇六名だった。
野村吉三郎大尉が乗組みの特務艦「京城丸」(一二〇七トン)は、朝鮮海峡南方の哨戒訓練に従事した。五月二十七日の日本海海戦には、野村吉三郎大尉は哨戒任務で参加、地味な任務だった。