その日、野村吉三郎大尉は、これらの上官とともに、初代大韓帝国皇帝・高宗に謁見し、その後の、天津楼での宴会(レセプション)では、伊藤博文統監と同席した。これらの出来事について、野村吉三郎は後に次のように回想している。
当日の午前、伊藤統監に案内され、富岡司令官、三艦長、先任参謀斎藤七五郎、後任参謀田村丕顕と共に私(旗艦航海長)は李国王に謁見した。
その時の伊藤さんの国王に対する挙措は、恰も我が天皇に対するように鄭重至極であった。富岡司令官は遠洋航海の状況を言上したが李国王は実に巧みに相槌を打った。
常に諸強国の使臣と応対しつけているので習い性となったのであろうか、人を逸らさぬ外交辞令には舌を捲いたのである。
謁見のこと終り控室に退いた後、伊藤さんは宮中の大官を集め、最近入手した朝鮮の密使がヘーグに現われ平和会議に日本を讒訴し、国際法廷に持ち出す運動を始めたという「ロイター」電を指摘して、「自分は朝鮮を扶殖興隆するためにこれ程日夜努力している。兵力をもって征服するのは易々たるものだが敢てそれをやらない。然るにこんな怪しからん運動をやるからには、自分はこれ以上責任を持つことは出来ぬ。自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ」と時々英語を交え縷々と説得した。
統監はゆったりと椅子に腰掛け卓上には三鞭(シャンパン)のコップが置かれている。此れに対して大官連中は起立し、ひたすらに恐縮の媚態を呈しているのを私は見た。
さてその夜の宴会には京城に在る日本の官・軍の首脳部は殆ど列席していたが、宴まさに酣なわとなった頃、伊藤さんは我々の席へやって来られて、いろいろ歓談され、また時には眉をあげ国事を憂うなど、さながら俊輔の昔に還ったかのように若々しく元気に見受けられた。
談偶々当時の朝鮮統治問題に及んだ時、向こうの席でひとかたまりになってやっている、軍司令長官長谷川好道大将等の一団を指し「あの連中は朝鮮に来ていると、朝鮮の物差しで尺度した考えしか持たない。あれでは国家百年の大計は建てられない。諸君は常に邦家百年の後に眼を放ち、軍人という立場だけに捉われず、日本人としての大局的な見地に立って考え且つ行動して貰いたいものだね、このワシの身に何か事が起こりでもしたら、日本は大いに儲かるぞハッハ……」と半ば冗談のように、そうして半ば真剣な顔付きをして語って居られた。
正直なところ私にはその意味が半知半解で確実に把握することは出来なかったが、とにかく酒間談笑のうちに受けたインスプレッションは、やはり何といっても艱難幾度か、生死の巷を潜って今日に至った国家の元勲の偉大さが躰全体から電気のように伝わった感じであった。
それから程なく私が墺・独駐在中に、ハルピン駅頭で朝鮮人安重根のために狙撃暗殺された兇報を聞き、胸を衝いて思い当たるものがあった。
以上が、李国王に謁見した当時の、野村吉三郎の回想である。
さて、野村吉三郎大尉が、旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長として参加した練習艦隊は、それから鎮海湾、釜山を廻り七月二十二日、鹿児島に帰投してその任務を終わった。
明治四十年八月二十日、野村吉三郎大尉は、二十九歳の若さで、横須賀鎮守府参謀に補された。
当時の横須賀鎮守府司令長官は、上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)大将(鹿児島・海兵四期・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・一等戦艦「朝日」回航委員長・英国出張・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)だった。
野村吉三郎の後年の回想によると、横須賀鎮守府司令長官・上村彦之丞大将は、日露戦争では、第二艦隊司令長官としての功績で授与された功一級金鵄勲章を、武将最高の名誉として、事あるごとにそれを持ち出し歓んでいたという。
また、横須賀鎮守府参謀長は、藤井較一(ふじい・こういち)少将(岡山・海兵七期・七番・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・台湾総督府海軍参謀・海軍省軍務局第二課長・軍令部第二局長・第二艦隊参謀長・少将・第一艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・第一艦隊司令官・佐世保工廠長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・後備役・大正十五年七月死去・享年六十七歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)だった。
当日の午前、伊藤統監に案内され、富岡司令官、三艦長、先任参謀斎藤七五郎、後任参謀田村丕顕と共に私(旗艦航海長)は李国王に謁見した。
その時の伊藤さんの国王に対する挙措は、恰も我が天皇に対するように鄭重至極であった。富岡司令官は遠洋航海の状況を言上したが李国王は実に巧みに相槌を打った。
常に諸強国の使臣と応対しつけているので習い性となったのであろうか、人を逸らさぬ外交辞令には舌を捲いたのである。
謁見のこと終り控室に退いた後、伊藤さんは宮中の大官を集め、最近入手した朝鮮の密使がヘーグに現われ平和会議に日本を讒訴し、国際法廷に持ち出す運動を始めたという「ロイター」電を指摘して、「自分は朝鮮を扶殖興隆するためにこれ程日夜努力している。兵力をもって征服するのは易々たるものだが敢てそれをやらない。然るにこんな怪しからん運動をやるからには、自分はこれ以上責任を持つことは出来ぬ。自分が手を引いたらどんなことになるか皇帝によく申し上げよ」と時々英語を交え縷々と説得した。
統監はゆったりと椅子に腰掛け卓上には三鞭(シャンパン)のコップが置かれている。此れに対して大官連中は起立し、ひたすらに恐縮の媚態を呈しているのを私は見た。
さてその夜の宴会には京城に在る日本の官・軍の首脳部は殆ど列席していたが、宴まさに酣なわとなった頃、伊藤さんは我々の席へやって来られて、いろいろ歓談され、また時には眉をあげ国事を憂うなど、さながら俊輔の昔に還ったかのように若々しく元気に見受けられた。
談偶々当時の朝鮮統治問題に及んだ時、向こうの席でひとかたまりになってやっている、軍司令長官長谷川好道大将等の一団を指し「あの連中は朝鮮に来ていると、朝鮮の物差しで尺度した考えしか持たない。あれでは国家百年の大計は建てられない。諸君は常に邦家百年の後に眼を放ち、軍人という立場だけに捉われず、日本人としての大局的な見地に立って考え且つ行動して貰いたいものだね、このワシの身に何か事が起こりでもしたら、日本は大いに儲かるぞハッハ……」と半ば冗談のように、そうして半ば真剣な顔付きをして語って居られた。
正直なところ私にはその意味が半知半解で確実に把握することは出来なかったが、とにかく酒間談笑のうちに受けたインスプレッションは、やはり何といっても艱難幾度か、生死の巷を潜って今日に至った国家の元勲の偉大さが躰全体から電気のように伝わった感じであった。
それから程なく私が墺・独駐在中に、ハルピン駅頭で朝鮮人安重根のために狙撃暗殺された兇報を聞き、胸を衝いて思い当たるものがあった。
以上が、李国王に謁見した当時の、野村吉三郎の回想である。
さて、野村吉三郎大尉が、旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長として参加した練習艦隊は、それから鎮海湾、釜山を廻り七月二十二日、鹿児島に帰投してその任務を終わった。
明治四十年八月二十日、野村吉三郎大尉は、二十九歳の若さで、横須賀鎮守府参謀に補された。
当時の横須賀鎮守府司令長官は、上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)大将(鹿児島・海兵四期・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・一等戦艦「朝日」回航委員長・英国出張・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)だった。
野村吉三郎の後年の回想によると、横須賀鎮守府司令長官・上村彦之丞大将は、日露戦争では、第二艦隊司令長官としての功績で授与された功一級金鵄勲章を、武将最高の名誉として、事あるごとにそれを持ち出し歓んでいたという。
また、横須賀鎮守府参謀長は、藤井較一(ふじい・こういち)少将(岡山・海兵七期・七番・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・台湾総督府海軍参謀・海軍省軍務局第二課長・軍令部第二局長・第二艦隊参謀長・少将・第一艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・第一艦隊司令官・佐世保工廠長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・後備役・大正十五年七月死去・享年六十七歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)だった。