その後、山下兵団は、まさに敵を蹴散らしながら、マレー半島を南下した。強風下のコタバル上陸から、シンガポールに日章旗が翻るまで、二ヶ月余の怒涛の進撃だった。
マレー作戦で、山下大将の自動車付近にも砲弾が飛来して、副官は生きた心地もせず同乗していると、山下大将は「こんな時は眠るんだ。眠っていれば怖くないよ」と言った。
砲弾の飛ぶ中で眠れる人は、よほど人間離れのした怪物だ。部隊長や参謀長でも恐怖で顔面を引きつらせていた。軍司令官ともなれば部下の前で怖がって見せない修業は積んできたのだろう。
昭和十七年二月九日、シンガポールを目前にして、ジョホール渡河作戦が行われようとしていた。この日の夜は、本来なら近衛師団が先陣を切って渡河することになっていた。
「シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この日、近衛師団長・西村琢磨中将(陸士二二・陸大三二)が参謀長・今井亀次郎大佐(陸士三〇・陸大四二)をつれて、第二十五軍司令部を訪れ、師団の先頭上陸部隊が全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。だが、後に二月十一日になって、先頭上陸部隊は健在で、悲観した状況ではないことが判明した。
「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、三日前の二月六日、第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八首席)が各師団長を集め、攻撃命令を下達したとき、西村師団長の表情がいかにも自身なさそうであったので、山下中将は気になっていた。
山下中将は、二月九日に西村中将の報告を受けて、近衛師団を急遽、後続部隊に回すことにした。その日の日記に山下中将は次のように記している。
「各師団長皆最善ヲ尽クサンコトヲ期スルモ、独リ近衛師団長ハヤヤ確信ヲ欠キ、当惑気ニ見ユ。嗚呼」
山下中将は二月十日朝、ジョホール水道をわたって戦闘司令所をテンガー飛行場北方の英軍高射砲陣地跡に進めた。
渡河中、しばしば流弾が舟艇をかすめた。副官の鈴木貞夫大尉は、舟艇に軍司令官用乗用車も積んであったので、その中に入るように山下中将にすすめた。
途端に、鈴木大尉は山下中将から「バカ!」と叱られた。考えてみたら、もし自動車に入ったままで舟艇が沈んだら、肥っている山下中将は出られないのだ。
二月十一日の近衛師団の行動も不活発にみえ、山下中将は日記に次のように記した。
「GD(近衛師団)ハ不相変グズグズ。業ヲ煮ヤシ馬奈木少将ヲ派遣シテ督促スルニ、一時ハ善キモ又元ノ木阿弥。蓋シ怯懦ニシテイクサヲ避ケテウロウロ動キ回ルニ過ギズ」
山下中将は、当初、栄光の近衛師団をシンガポールに一番乗りさせようと考えてそのように配置していた。だが、師団長が意気消沈していたのでは仕方がなかった。それで第五師団と第十八師団の精鋭部隊を先鋒として、渡河作戦を行った。
ところが、ジョホール渡河作戦が成功した後に、部下の突き上げにあったのか、自分の意思だったか定かではないが、近衛師団長・西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた。
栄光の部隊が邪魔者扱いされて第一線をはずされ、「第二次、第三次の渡河組に回されたから、英軍の火攻めの重油戦術にひっかかったんだ。これだけ多くの死傷者を出した責任を取ってもらいたい」と言って来たのである。
このとき、軍司令官・山下中将は、すでにシンガポールに渡った後で、ゴム林の中に天幕を敷き、幕僚達と乾パンと水の朝食を食べている時だった。いつもは温和な第二十五軍参謀・解良七郎中佐が、興奮の面持ちでこの一件を知らせに来た。
この報告を聞いた山下中将は、西村師団長の言動に「失敬千万な」と怒りをあらわにしたが、近衛師団の一連隊全滅の報にはさすがに顔色が変わったと、辻政信中佐は書いている。
作家の井伏鱒二は、人伝に聞いた話として、「宮兵団(近衛師団)の西村中将は剛将であった。二・二六事件の判士長として、峻烈な粛軍の火蓋を切った人で、青年将校のシンパで皇道派の山下とはいつも対立していた。マレー作戦でも対立して、近衛師団は継子扱いされた。二十五軍では、近衛師団は勝手に作戦すべしなどと毛嫌いされた」と書いている。
事の真意は別として、青年将校を処刑された山下の恨みと、二・二六事件に激怒した統制派の剛将・西村という対立の図式はうがった見方としても、あり得る。
「東條英機首相を首領と仰ぐ西村中将は、マレー上陸以来、しばしば東條首相に書簡を書き送っている。本来天皇を守る近衛師団をないがしろにするとなれば、東條首相には不忠と映ってしまう」と元参謀の一人は述べている。
マレー作戦で、山下大将の自動車付近にも砲弾が飛来して、副官は生きた心地もせず同乗していると、山下大将は「こんな時は眠るんだ。眠っていれば怖くないよ」と言った。
砲弾の飛ぶ中で眠れる人は、よほど人間離れのした怪物だ。部隊長や参謀長でも恐怖で顔面を引きつらせていた。軍司令官ともなれば部下の前で怖がって見せない修業は積んできたのだろう。
昭和十七年二月九日、シンガポールを目前にして、ジョホール渡河作戦が行われようとしていた。この日の夜は、本来なら近衛師団が先陣を切って渡河することになっていた。
「シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この日、近衛師団長・西村琢磨中将(陸士二二・陸大三二)が参謀長・今井亀次郎大佐(陸士三〇・陸大四二)をつれて、第二十五軍司令部を訪れ、師団の先頭上陸部隊が全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。だが、後に二月十一日になって、先頭上陸部隊は健在で、悲観した状況ではないことが判明した。
「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、三日前の二月六日、第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八首席)が各師団長を集め、攻撃命令を下達したとき、西村師団長の表情がいかにも自身なさそうであったので、山下中将は気になっていた。
山下中将は、二月九日に西村中将の報告を受けて、近衛師団を急遽、後続部隊に回すことにした。その日の日記に山下中将は次のように記している。
「各師団長皆最善ヲ尽クサンコトヲ期スルモ、独リ近衛師団長ハヤヤ確信ヲ欠キ、当惑気ニ見ユ。嗚呼」
山下中将は二月十日朝、ジョホール水道をわたって戦闘司令所をテンガー飛行場北方の英軍高射砲陣地跡に進めた。
渡河中、しばしば流弾が舟艇をかすめた。副官の鈴木貞夫大尉は、舟艇に軍司令官用乗用車も積んであったので、その中に入るように山下中将にすすめた。
途端に、鈴木大尉は山下中将から「バカ!」と叱られた。考えてみたら、もし自動車に入ったままで舟艇が沈んだら、肥っている山下中将は出られないのだ。
二月十一日の近衛師団の行動も不活発にみえ、山下中将は日記に次のように記した。
「GD(近衛師団)ハ不相変グズグズ。業ヲ煮ヤシ馬奈木少将ヲ派遣シテ督促スルニ、一時ハ善キモ又元ノ木阿弥。蓋シ怯懦ニシテイクサヲ避ケテウロウロ動キ回ルニ過ギズ」
山下中将は、当初、栄光の近衛師団をシンガポールに一番乗りさせようと考えてそのように配置していた。だが、師団長が意気消沈していたのでは仕方がなかった。それで第五師団と第十八師団の精鋭部隊を先鋒として、渡河作戦を行った。
ところが、ジョホール渡河作戦が成功した後に、部下の突き上げにあったのか、自分の意思だったか定かではないが、近衛師団長・西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた。
栄光の部隊が邪魔者扱いされて第一線をはずされ、「第二次、第三次の渡河組に回されたから、英軍の火攻めの重油戦術にひっかかったんだ。これだけ多くの死傷者を出した責任を取ってもらいたい」と言って来たのである。
このとき、軍司令官・山下中将は、すでにシンガポールに渡った後で、ゴム林の中に天幕を敷き、幕僚達と乾パンと水の朝食を食べている時だった。いつもは温和な第二十五軍参謀・解良七郎中佐が、興奮の面持ちでこの一件を知らせに来た。
この報告を聞いた山下中将は、西村師団長の言動に「失敬千万な」と怒りをあらわにしたが、近衛師団の一連隊全滅の報にはさすがに顔色が変わったと、辻政信中佐は書いている。
作家の井伏鱒二は、人伝に聞いた話として、「宮兵団(近衛師団)の西村中将は剛将であった。二・二六事件の判士長として、峻烈な粛軍の火蓋を切った人で、青年将校のシンパで皇道派の山下とはいつも対立していた。マレー作戦でも対立して、近衛師団は継子扱いされた。二十五軍では、近衛師団は勝手に作戦すべしなどと毛嫌いされた」と書いている。
事の真意は別として、青年将校を処刑された山下の恨みと、二・二六事件に激怒した統制派の剛将・西村という対立の図式はうがった見方としても、あり得る。
「東條英機首相を首領と仰ぐ西村中将は、マレー上陸以来、しばしば東條首相に書簡を書き送っている。本来天皇を守る近衛師団をないがしろにするとなれば、東條首相には不忠と映ってしまう」と元参謀の一人は述べている。