さらに、鈴木大将は続けた。
「君は今、上原元帥の副官を兼職しているので、この際とくに言っておく。上原さんは、どんな人前でも隠さずに、喜怒哀楽を、顔と言葉に表す。人間として、純なところは親しまれる」
「元帥は中央での計画勤務が長く、戦場でも軍参謀長としての職務で事務的だったから、あの俊敏な頭が、よく陸軍に貢献し得てはいる。けれど、戦場での軍司令官としてはあのとおりではいけない。とくに大難局に陥ったときの全軍将兵は、統帥者の顔色だけででも戦況を心配したり、大丈夫だとの自信をもったりする」
「あの試験のときは、君はたしかに僕に欠点を衝かれ、顔色をかえてうろたえを暴露した。戦場ではお互いに、相手の欠点弱点を突き合うものだ。あのときのことを忘れんで修練をつみ、特に戦時には一段と注意しなけりゃならんぞ…」。
大正四年、陸軍大学校三ヵ年教育の卒業試験は、参謀演習旅行の名の下に、仙台、山形、弘前の三地方で、各々七日ずつの三週間に渡って行われた。
今村中尉ら三学年の六十名は、二十名ずつの三個班に分けられ、各班ごとに指導官一、補助官三が附き、この四人の教官が試験官となり、各学生の能力を観察した。
試験は各班共に十名ずつの二組に分かれ、各学生は互いに、相対抗する両軍の軍司令官、軍参謀長、軍内各師団長などの職務に当たり、攻撃、防御の作戦をやらせられ、試験官は各人のやりかたの適否を考察して採点の上、卒業序列を決定する。
むろん、以上の職務は不公平にならないように時々交代し、最後の一週間は、六十名全員を一班にまとめ、大学校幹事(教頭職で大佐か少将)とその補助官とが、演習を指導して試験することになっていた。
今村中尉の属した第一班の指導官は、吉岡顕作中佐(陸士七・陸大一六首席・後の中将)。その補助官は、林仙之少佐(陸士九・陸大二〇・後の大将)、他門二郎少佐(陸士一一・陸大二一・後の中将)、柳川平助少佐(陸士一二・陸大二四恩賜・後の中将)の三名だった。
演習第一日目、今村中尉は北軍司令官に当たっている岡部中尉に対抗する、南軍司令官の役をふりあてられた。そして北白川宮成久王殿下(陸士二〇・陸大二七・後の大佐・フランスで自動車事故で三十七歳で死去)が、軍参謀長に指定された。
今村中尉は、演習ではあっても、北白川宮殿下に今村中尉の考えを伝え、命令文を起案していただくような気にはなれなかった。
北白川宮殿下から「何でも言いつけ給え」とは言われたが、今村中尉は「そばでご覧になっておられ、何か間違いをしていると、お気づきになりましたときに、ご注意くださるよう、お願い申し上げます」と答えた。
今村中尉は結局、軍司令官と、その参謀長のやるべき両方の仕事を、自分ひとりでやることにしたので、忙しいことは大変だった。
指導官の吉岡中佐は、入学の口述試験の人物考査の時、今村中尉はひどく叱られただけで、その後三年間、一度も教えられたことは無かった。
従って今村中尉は吉岡中佐の性格については全く承知することなしに、その人の試験を受けることになった。
そんなことから、今村中尉の行った軍の運用は多分に吉岡試験官の流儀と違い、指導しぬくかったらしく、吉岡中佐は時々声を荒くし、今村中尉のやり方を修正させようとしたが、今村中尉はほとんど一度もこれに応じて直したことが無かった。
吉岡中佐は、不快の表情を表にし、いろいろ今村中尉につっかかってきた。今村中尉の興奮性は、当時三十歳前の時分は人並み以上に強かった。
そのため、演習第三日、仙台北方、吉川平野での攻撃作戦では、今村中尉は「試験で落第したってかまわない」という捨て鉢気分になってしまい、試験官・吉岡中佐が大きな声を出せば、今村中尉も逆に吉岡中佐の考えの不当を論難するような反抗的態度を出してしまった。
この日の演習には、・陸軍大学校長・河合操中将(陸士旧八・陸大八・後の大将)が、朝から今村中尉の班に臨場して、視察していた。第一日にも来たので、これで二回目だった。
今村中尉は、一日目に二回、今回も一回、河合校長から、今村中尉の不動の姿勢が悪く、首が右に傾いていることを注意された。
午後四時頃、演習が終わり、解散したが、今村中尉は河合校長から「今村中尉は、こちらに来い」と呼び止められた。
今村中尉が河合校長の前に進み出て敬礼すると、「貴官は、校長から幾回姿勢を正されたか」と訊かれた。「三回であります」と答えると、「三度も注意されながら、少しもなおっていない。己の欠点を正す誠意が無ければ、なおらないぞ」と言われ、また首より上の姿勢を直された。
吉岡試験官と張り合った上に、また河合校長よりの叱責だった。今村中尉の気分はすこぶる暗くなった。午後五時前、宿に帰ると、北白川宮殿下の御附武官からすぐ来るようにと連絡が来た。
「君は今、上原元帥の副官を兼職しているので、この際とくに言っておく。上原さんは、どんな人前でも隠さずに、喜怒哀楽を、顔と言葉に表す。人間として、純なところは親しまれる」
「元帥は中央での計画勤務が長く、戦場でも軍参謀長としての職務で事務的だったから、あの俊敏な頭が、よく陸軍に貢献し得てはいる。けれど、戦場での軍司令官としてはあのとおりではいけない。とくに大難局に陥ったときの全軍将兵は、統帥者の顔色だけででも戦況を心配したり、大丈夫だとの自信をもったりする」
「あの試験のときは、君はたしかに僕に欠点を衝かれ、顔色をかえてうろたえを暴露した。戦場ではお互いに、相手の欠点弱点を突き合うものだ。あのときのことを忘れんで修練をつみ、特に戦時には一段と注意しなけりゃならんぞ…」。
大正四年、陸軍大学校三ヵ年教育の卒業試験は、参謀演習旅行の名の下に、仙台、山形、弘前の三地方で、各々七日ずつの三週間に渡って行われた。
今村中尉ら三学年の六十名は、二十名ずつの三個班に分けられ、各班ごとに指導官一、補助官三が附き、この四人の教官が試験官となり、各学生の能力を観察した。
試験は各班共に十名ずつの二組に分かれ、各学生は互いに、相対抗する両軍の軍司令官、軍参謀長、軍内各師団長などの職務に当たり、攻撃、防御の作戦をやらせられ、試験官は各人のやりかたの適否を考察して採点の上、卒業序列を決定する。
むろん、以上の職務は不公平にならないように時々交代し、最後の一週間は、六十名全員を一班にまとめ、大学校幹事(教頭職で大佐か少将)とその補助官とが、演習を指導して試験することになっていた。
今村中尉の属した第一班の指導官は、吉岡顕作中佐(陸士七・陸大一六首席・後の中将)。その補助官は、林仙之少佐(陸士九・陸大二〇・後の大将)、他門二郎少佐(陸士一一・陸大二一・後の中将)、柳川平助少佐(陸士一二・陸大二四恩賜・後の中将)の三名だった。
演習第一日目、今村中尉は北軍司令官に当たっている岡部中尉に対抗する、南軍司令官の役をふりあてられた。そして北白川宮成久王殿下(陸士二〇・陸大二七・後の大佐・フランスで自動車事故で三十七歳で死去)が、軍参謀長に指定された。
今村中尉は、演習ではあっても、北白川宮殿下に今村中尉の考えを伝え、命令文を起案していただくような気にはなれなかった。
北白川宮殿下から「何でも言いつけ給え」とは言われたが、今村中尉は「そばでご覧になっておられ、何か間違いをしていると、お気づきになりましたときに、ご注意くださるよう、お願い申し上げます」と答えた。
今村中尉は結局、軍司令官と、その参謀長のやるべき両方の仕事を、自分ひとりでやることにしたので、忙しいことは大変だった。
指導官の吉岡中佐は、入学の口述試験の人物考査の時、今村中尉はひどく叱られただけで、その後三年間、一度も教えられたことは無かった。
従って今村中尉は吉岡中佐の性格については全く承知することなしに、その人の試験を受けることになった。
そんなことから、今村中尉の行った軍の運用は多分に吉岡試験官の流儀と違い、指導しぬくかったらしく、吉岡中佐は時々声を荒くし、今村中尉のやり方を修正させようとしたが、今村中尉はほとんど一度もこれに応じて直したことが無かった。
吉岡中佐は、不快の表情を表にし、いろいろ今村中尉につっかかってきた。今村中尉の興奮性は、当時三十歳前の時分は人並み以上に強かった。
そのため、演習第三日、仙台北方、吉川平野での攻撃作戦では、今村中尉は「試験で落第したってかまわない」という捨て鉢気分になってしまい、試験官・吉岡中佐が大きな声を出せば、今村中尉も逆に吉岡中佐の考えの不当を論難するような反抗的態度を出してしまった。
この日の演習には、・陸軍大学校長・河合操中将(陸士旧八・陸大八・後の大将)が、朝から今村中尉の班に臨場して、視察していた。第一日にも来たので、これで二回目だった。
今村中尉は、一日目に二回、今回も一回、河合校長から、今村中尉の不動の姿勢が悪く、首が右に傾いていることを注意された。
午後四時頃、演習が終わり、解散したが、今村中尉は河合校長から「今村中尉は、こちらに来い」と呼び止められた。
今村中尉が河合校長の前に進み出て敬礼すると、「貴官は、校長から幾回姿勢を正されたか」と訊かれた。「三回であります」と答えると、「三度も注意されながら、少しもなおっていない。己の欠点を正す誠意が無ければ、なおらないぞ」と言われ、また首より上の姿勢を直された。
吉岡試験官と張り合った上に、また河合校長よりの叱責だった。今村中尉の気分はすこぶる暗くなった。午後五時前、宿に帰ると、北白川宮殿下の御附武官からすぐ来るようにと連絡が来た。