陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

634.山本権兵衛海軍大将(14)榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした

2018年05月18日 | 山本権兵衛海軍大将
 事実は、榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした。人事権で薩摩の勢力を抑えようとしたのだが、反対に自分が叩き出される結果を招いたのだ。

 なお、仁礼景範少将は、東海(後の横須賀)鎮守府司令長官の要職に復活した。

 航海練習艦「浅間」においての、山本権兵衛中尉の主任務は、砲術教育だった。八月には、井上良馨中佐が、「浅間」艦長に任命され、着任した。

 これにより、海軍部内から集められた砲術志望の士官、下士官に対する操艦練習も開始された。この中には、従来の士官でも、熱意のある少佐、大尉なども含まれていた。

 山本中尉は、准士官、下士官の中から人物優秀な者を抜擢して、士官に昇進させる道を開くことを献策し、海軍省に認められた。

 山本中尉の推薦により、下士官から少尉補になり、後に中佐、大佐、少将に進んだ者も数名いた。

 「浅間」で教育を受ければ、どんどん昇進するという評判が海軍部内に伝わり、砲術志願者が続出するようになった。

 山本中尉は、ラッパ譜の改正も提議した。陸海軍がバラバラに吹いているが、このままでは、陸海軍が協同動作を行うとき、混乱が起こるから、陸海軍は協同で審査し、整理改正をする必要がある、というのである。

 山本中尉の話を聞いた海軍卿・川村中将は、「「海軍のラッパ譜は、卓越した西洋人を招聘し、研究を重ねてできたもので、陸軍よか先達の位置にある。改正する必要はなか」と、簡単に却下した。

 ところが、昭和十五年夏、朝鮮の京城で起こった「壬午の変」の時、出動した陸軍部隊と海軍陸戦隊の間で、ラッパのために珍事件が発生した。

 海軍部隊で「食事」のラッパが鳴り渡ると、陸軍部隊の兵士らが、一斉に任務を中止して、「気を付け」の姿勢をとったのである。海軍の「食事」ラッパが、陸軍の「気を付け」ラッパに極めてよく似ていたからだ。

 報告を受けた川村中将は、驚き、前言を取り消して、陸海軍両省からラッパ譜の改正調査委員を設置することを認めた。

 明治十五年十二月十一日、山本権兵衛大尉は、航海練習艦「浅間」(一四二二トン・砲一四門)の副長に任命された。

 前任の副長は吉島辰寧(よしじま・ときやす)少佐(練習艦「浅間」副長・少佐・横須賀水兵屯営副長・練習艦「摂津」艦長・中佐・練習艦「浅間」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・海軍兵学校次長・第一局第一課長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・呉鎮守府参謀長・待命・予備役・充員招集・海軍兵学校校長・少将)だった。

 退任直後、吉島辰寧少佐は、自ら志願して若い練習士官の中に入り、「浅間」において、砲術の専攻に励んだ。

 補習を必要とすると思いながら、口に出せないでいた従来の士官らが、それに刺激されて、吉島少佐の後に続いた。こうして、「学術に対しては、官位の上下なし」の新風が吹き始めた。

 明治十八年四月二十三日、「天津条約」締結五日後に、山本権兵衛大尉は、練習艦「浅間」副長から、英国で建造中の最新鋭巡洋艦「浪速」の回航事務取扱委員に転出した。

 最新鋭巡洋艦「浪速」の艦長は、伊東祐亨大佐だった。山本権兵衛大尉は、六月二十日、少佐に進級し、十一月二十日、副長に任命された。

 この新巡洋艦は以前の軍艦と全く変わり、帆がなく、スクリューだけで航走する、鋼鉄製、三六五〇トン、速力一八ノット、二十六センチ砲二門、十五センチ砲六門、魚雷発射管四門という、高性能で強大な艦だった。

 ちなみに、「浪速」と同型の「高千穂」が同じく英国のアームストロング社、「畝傍」がフランスのフォルジュ・シャンティェ社で、同時に建造中だった。

 明治十九年二月十五日、伊東大佐、山本少佐ら回航委員は、イングランド東北部のニューカッスルにあるアームストロング社のロー・エルジック造船所で、「浪速」を受領した。

 出航に先立ち、山本権兵衛副長は、伊東艦長の承認を得て、「浪速」の全乗員に、英国海軍式のパン食を励行させることにした。日本海軍の艦船乗員は、ビタミンB不足のために、脚気にかかる者が多かったからだ。