陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

34.遠藤三郎陸軍中将(4) 川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えた

2006年11月10日 | 遠藤三郎陸軍中将
いよいよ二個師団動員実施という段になって、昭和6年2月20日夕刻、遠藤少佐は命令で動員担当の第一課長・東條英機大佐に第十一、第十四師団の動員の手続きのお願いに行った。

 すると東條課長は遠藤少佐を押しのけて、作戦課長の室に駆け込み、小畑課長にいきなり「貴様は一人で戦をする気か!」と噛み付いた。

 その物凄い姿は、遠藤少佐の眼底にこびりついたという。東條課長には何の連絡も相談もなかったことに激怒したという。

 遠藤少佐も東條課長から激しく叱責された。統制派といわれた東條課長からは、皇道派と目された荒木陸軍大臣や小畑作戦課長と親しかった遠藤少佐が、元々好意をもたれるはずはなかった。

 幸い小畑課長の説得により、東條課長も渋々ながら納まり動員を承諾し、2月24日午後6時半、遠藤少佐は新たに派遣される軍の奉勅命令上奏の参謀次長の伴をして参内、午後5時御裁可になり即発令された。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少佐はこの新軍の司令官、白川義則大将の私邸に訪ね、命令を伝達した。

 昭和7年3月1日第一次上陸部隊は予定通り上海北方の揚子江の七了口に上陸、遠藤少佐も第十一師団長と共に上陸し上海に向かった。これが第一次上海事変である。

 その夜、遠藤少佐は上海の紡績会社社長、倉知氏の別邸に泊まった。そこには田中隆吉少佐や男装の麗人といわれた粛親王の王女・川島芳子らも同宿していた。川島芳子は田中隆吉少佐の愛人と言われていた。

 遠藤少佐は彼らと歓談したが、その時、川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えたという。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、川島芳子は清朝王族の粛親王の第十四王女だが、同王朝顧問の川島浪速の養女となる。

 甘粕正彦が一役買った清朝の廃帝溥儀の満州への引き出し後、川島芳子はその皇后、婉要を天津から脱出させた。

 このようなことから、川島芳子はドイツの女スパイになぞらえ「東洋のマタハリ」と異名のつくきっかけとなったが、戦後スパイ罪で中国で処刑された。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変後、本庄繁軍司令官、石原莞爾主任参謀らは転任した。そのあと、昭和7年8月、遠藤三郎少佐は参謀本部作戦課部員から関東軍作戦主任参謀を命じられた。

 関東軍の新軍司令官は教育総監から転じた武藤信義大将。参謀長は陸軍次官から転じた小磯国昭中将。参謀副長は徳川の直参で旗本の血を引く岡村寧次少将で、小畑敏四郎少将、永田鉄山少将とともに陸軍の三羽烏と言われた人。田中新一中佐も参謀として顔を揃えていた。

 当時関東軍は第十師団、第十四師団、第二師団、第八師団、独立守備隊の陣容で配置されていたが、熱河省と興安省の守備が手薄ということで、小磯国昭参謀長は中央に数個師団の増兵を要求するよう作戦主任参謀の遠藤少佐に命じた。

 遠藤少佐は関東軍に来る前、参謀本部主任部員としてしばしば、増兵を陸軍省に交渉した際、いつもそれを渋ったのは陸軍次官だった小磯中将であった。

 そのことを遠藤少佐は小磯参謀長に直言し、国内事情も、増兵は困難なことを承知しておりますからと反問した。すると小磯参謀長は「立場が違うからかまわん」と言った。

 遠藤少佐は、いくら立場が違うとはいえ新任早々手の裏を返すような態度は好ましくないと思った。

 遠藤少佐は「軍隊は与えられた兵力で与えられた任務に最善を尽くすべきものと思います。私は作戦主任参謀としてまず現在の兵力でやってみたい」と申したところ、小磯参謀長もそれを了承し、増兵要求は止めた。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和8年3月第六師団は長城を越えて建昌営に進出したが4月に入ってからも敵の反抗が衰えず、日本軍は自滅に陥ることが明瞭になった。

 遠藤少佐は河北省東部に攻撃を開始する軍命令を立案し武藤軍司令官の承認を得て伝達した。

 先に建昌営に進出した時、中央から大変叱責され、止むを得ず長城内に撤退の命令を出し、軍幕僚や第一線部隊から大変な苦情を受けた前例があるので、今回は中央と連絡なしに軍命令を実施した。