昭和十六年二月十四日、フランクリン・ルーズベルト大統領をホワイト・ハウスに訪問して、駐米全権大使・野村吉三郎が天皇陛下からの信任状を奉呈する時、ルーズベルト大統領の表情はやや硬かった。
その後、会談に移ってからは、ルーズベルト大統領は、いつもの大統領スマイルで旧友の長旅をねぎらった。
この会談が、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見となった。
ルーズベルト大統領は次のように言った。
「自分は日本人の友であり、アドミラル・ノムラはアメリカの友である。お互いは十分率直に話し合えることができる」
「日米の関係は、国務省において、すでに二百数十通の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激され、今や両国国交は悪化の道をたどっている」
「昔のメイン号の例もあり、揚子江においては、パネー号事件のような際は、自分及び国務長官が、世論をおさえなかったならば、危険な状態に陥っただろう」
「日本はいまや海南島から仏印、タイ方面まで進出する形勢にある。日本の南進はほとんど既定の国策のように思われる」
「アメリカの援英はアメリカ独自の自由意思に基づくものであるが、日本は三国同盟があるために、その行動に十分独立的な自由がなく、かえってドイツ、イタリア両国が日本を強制する恐れもある」。
以上のようにルーズベルト大統領は憂える気持ちを表したが、そのあと、次のように好意的に語った。
「今後、自分はいつでも喜んで君と面談するであろう」。
これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように答えた。
「自分は日米は戦うべきものではないということを徹底的に信じておる者であり、将来、世界平和のため、あるいはまた世界平和を維持するため、むしろ両国が努力すべき日の到来することを確信しているものである」。
ルーズベルト大統領は極めて同感の意を表した。彼は自分がエリノア夫人と駐米全権大使・野村吉三郎大将の来米について歓迎の話をしたことを告げ、会談の最後はやっと和気あいあいたるものとなった。
昭和十六年十二月八日の日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)までにルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の会見は九回行われている。また、ハル国務長官との会談も二十九回行われている。
このルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見以後、日ソ中立条約締結、独ソ開戦、第二次近衛内閣総辞職、第三次近衛内閣、南部仏印進駐など日本国内と世界情勢は変貌し、日米関係はさらに悪化する。
昭和十六年七月二十四日、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第三次会見が行われた。
最初に駐米全権大使・野村吉三郎大将が南部仏印進駐について次のように釈明した。
「仏印進駐は我が国としては経済自活上及び同地区の安全上、真にやむを得ざるところであり、また仏印の領土保全、主権尊重である」
次に駐米全権大使・野村吉三郎大将は両国間の懸案である太平洋の平和維持を目的とする日米了解案の三難点、一、自衛権の問題、二、中国における駐兵問題、三、通商無差別問題を指摘して次のように述べた。
「駐兵も永久的ではなく、自ら解決の道があると思う。アメリカ政府は多少日本政府の誠意を疑っているということも聞いているが、現内閣は(松岡洋介がいないため)日米了解案に熱心である。よって大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する」。
その後、会談に移ってからは、ルーズベルト大統領は、いつもの大統領スマイルで旧友の長旅をねぎらった。
この会談が、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見となった。
ルーズベルト大統領は次のように言った。
「自分は日本人の友であり、アドミラル・ノムラはアメリカの友である。お互いは十分率直に話し合えることができる」
「日米の関係は、国務省において、すでに二百数十通の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激され、今や両国国交は悪化の道をたどっている」
「昔のメイン号の例もあり、揚子江においては、パネー号事件のような際は、自分及び国務長官が、世論をおさえなかったならば、危険な状態に陥っただろう」
「日本はいまや海南島から仏印、タイ方面まで進出する形勢にある。日本の南進はほとんど既定の国策のように思われる」
「アメリカの援英はアメリカ独自の自由意思に基づくものであるが、日本は三国同盟があるために、その行動に十分独立的な自由がなく、かえってドイツ、イタリア両国が日本を強制する恐れもある」。
以上のようにルーズベルト大統領は憂える気持ちを表したが、そのあと、次のように好意的に語った。
「今後、自分はいつでも喜んで君と面談するであろう」。
これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように答えた。
「自分は日米は戦うべきものではないということを徹底的に信じておる者であり、将来、世界平和のため、あるいはまた世界平和を維持するため、むしろ両国が努力すべき日の到来することを確信しているものである」。
ルーズベルト大統領は極めて同感の意を表した。彼は自分がエリノア夫人と駐米全権大使・野村吉三郎大将の来米について歓迎の話をしたことを告げ、会談の最後はやっと和気あいあいたるものとなった。
昭和十六年十二月八日の日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)までにルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の会見は九回行われている。また、ハル国務長官との会談も二十九回行われている。
このルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見以後、日ソ中立条約締結、独ソ開戦、第二次近衛内閣総辞職、第三次近衛内閣、南部仏印進駐など日本国内と世界情勢は変貌し、日米関係はさらに悪化する。
昭和十六年七月二十四日、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第三次会見が行われた。
最初に駐米全権大使・野村吉三郎大将が南部仏印進駐について次のように釈明した。
「仏印進駐は我が国としては経済自活上及び同地区の安全上、真にやむを得ざるところであり、また仏印の領土保全、主権尊重である」
次に駐米全権大使・野村吉三郎大将は両国間の懸案である太平洋の平和維持を目的とする日米了解案の三難点、一、自衛権の問題、二、中国における駐兵問題、三、通商無差別問題を指摘して次のように述べた。
「駐兵も永久的ではなく、自ら解決の道があると思う。アメリカ政府は多少日本政府の誠意を疑っているということも聞いているが、現内閣は(松岡洋介がいないため)日米了解案に熱心である。よって大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する」。