だから、私は海軍の先輩や友人から意見を聞いたのだが、その中でも思い出すのは、米内(光政、三期後輩、前総理・海相)君の言葉である。
事情やむをえず就任を引き受けることに踏み切りかけたとき、米内君に会っていろいろ話し合ったが、その時私が、『政府や軍も自分の意見をよく理解して、その線で働かせるという約束だから……』というと、米内君は、『それはまことに結構だが、そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから、十分気を付けるように』と忠告してくれた。
後日になって、この米内君の言葉が胸にこたえることもあったが、とにかく私としては大廈(大建築)のまさに覆らんとするのを、あえて支えるような悲壮な気持ちで就任を受諾したことは事実である。
以上が、野村吉三郎の駐米全権大使就任までのいきさつの回顧である。
昭和十六年一月二十三日、駐米全権大使・野村吉三郎大将は日本郵船「鎌倉丸」で横浜を出港、二月六日午前九時、サンフランシスコに入港した。
アメリカに上陸した駐米全権大使・野村吉三郎大将をまず出迎えたのは、数十名の新聞記者達であった。彼らは口々に質問を浴びせた。
「アドミラル・ノムラ、日米関係は絶望だと思うか?」
これに対し、駐米全権大使・野村吉三郎は悠然と次のように答えた。
「私は日米関係の前進に大いなる希望を持っている。その希望を抱いてワシントンに行くのだ。日米戦争など考えたこともない」
「日米関係は改善できるか?だって?……しかり。日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由など超越した断固たる信念である。私はこの信念を抱いて太平洋を越えて来たのだ」。
ところが、二月十一日、駐米全権大使・野村吉三郎大将一行がワシントンに到着した時は、打って変わった冷遇ぶりであった。
アメリカ当局からの出迎えは、わずかに儀典課長らだけで、多かったのはドイツ、イタリアの駐在大使館員で、駐米全権大使・野村吉三郎大将に、わびしい、そして迷惑な思いを感じさせた。
サンフランシスコに比べて新聞の扱いも小さく、アメリカの敵意と憎悪を感じさせるのに十分であった。『これは容易ならぬことになったぞ、よほどふんどしを締めてかからなければならないぞ……』駐米全権大使・野村吉三郎大将は、緊張しながらマサチューセッツ通りの日本大使館に向かった。
日本の提督で、野村吉三郎大将ぐらいルーズベルト大統領と因縁の深い者はいない。
大正四年、第一次世界大戦開戦の翌年一月、野村吉三郎中佐が大使館附武官としてワシントンに着任した時、ルーズベルトはダニエル海軍長官のもとで海軍次官だった。
二人はメトロポリタンクラブで食事をしたり、ルーズベルトの私邸を訪ねたり、互いに友情を温めた。
昭和四年の夏、野村吉三郎中将が練習艦隊司令官として訪米したときは、ルーズベルトはニューヨーク州知事という大統領候補の重要な地位にいた。
この時は、二人は会見できなかったが、手紙で旧交を温めた。その三年後、ルーズベルトは大統領選挙で当選、野村吉三郎中将は祝賀の手紙を送った。
「今度暇がとれたら、ぜひエリノア(夫人)を連れて日本を訪問したい」という手紙が、ルーズベルトから届いた。
昭和十一年、ルーズベルトは大統領に再選された。当時、軍事参議官であった野村吉三郎大将は、また、祝いの手紙を送った。
ルーズベルトの手紙には、「今度こそ日本を訪問して、提督と会いたいものだ」と書いてあった。
野村吉三郎大将が全権駐米大使と決まってから、ルーズベルトは側近に、「アドミラル・ノムラは私の最も良き日本の友人だ」と言って、そのワシントン到着を待ちわびていたという。
事情やむをえず就任を引き受けることに踏み切りかけたとき、米内君に会っていろいろ話し合ったが、その時私が、『政府や軍も自分の意見をよく理解して、その線で働かせるという約束だから……』というと、米内君は、『それはまことに結構だが、そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから、十分気を付けるように』と忠告してくれた。
後日になって、この米内君の言葉が胸にこたえることもあったが、とにかく私としては大廈(大建築)のまさに覆らんとするのを、あえて支えるような悲壮な気持ちで就任を受諾したことは事実である。
以上が、野村吉三郎の駐米全権大使就任までのいきさつの回顧である。
昭和十六年一月二十三日、駐米全権大使・野村吉三郎大将は日本郵船「鎌倉丸」で横浜を出港、二月六日午前九時、サンフランシスコに入港した。
アメリカに上陸した駐米全権大使・野村吉三郎大将をまず出迎えたのは、数十名の新聞記者達であった。彼らは口々に質問を浴びせた。
「アドミラル・ノムラ、日米関係は絶望だと思うか?」
これに対し、駐米全権大使・野村吉三郎は悠然と次のように答えた。
「私は日米関係の前進に大いなる希望を持っている。その希望を抱いてワシントンに行くのだ。日米戦争など考えたこともない」
「日米関係は改善できるか?だって?……しかり。日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由など超越した断固たる信念である。私はこの信念を抱いて太平洋を越えて来たのだ」。
ところが、二月十一日、駐米全権大使・野村吉三郎大将一行がワシントンに到着した時は、打って変わった冷遇ぶりであった。
アメリカ当局からの出迎えは、わずかに儀典課長らだけで、多かったのはドイツ、イタリアの駐在大使館員で、駐米全権大使・野村吉三郎大将に、わびしい、そして迷惑な思いを感じさせた。
サンフランシスコに比べて新聞の扱いも小さく、アメリカの敵意と憎悪を感じさせるのに十分であった。『これは容易ならぬことになったぞ、よほどふんどしを締めてかからなければならないぞ……』駐米全権大使・野村吉三郎大将は、緊張しながらマサチューセッツ通りの日本大使館に向かった。
日本の提督で、野村吉三郎大将ぐらいルーズベルト大統領と因縁の深い者はいない。
大正四年、第一次世界大戦開戦の翌年一月、野村吉三郎中佐が大使館附武官としてワシントンに着任した時、ルーズベルトはダニエル海軍長官のもとで海軍次官だった。
二人はメトロポリタンクラブで食事をしたり、ルーズベルトの私邸を訪ねたり、互いに友情を温めた。
昭和四年の夏、野村吉三郎中将が練習艦隊司令官として訪米したときは、ルーズベルトはニューヨーク州知事という大統領候補の重要な地位にいた。
この時は、二人は会見できなかったが、手紙で旧交を温めた。その三年後、ルーズベルトは大統領選挙で当選、野村吉三郎中将は祝賀の手紙を送った。
「今度暇がとれたら、ぜひエリノア(夫人)を連れて日本を訪問したい」という手紙が、ルーズベルトから届いた。
昭和十一年、ルーズベルトは大統領に再選された。当時、軍事参議官であった野村吉三郎大将は、また、祝いの手紙を送った。
ルーズベルトの手紙には、「今度こそ日本を訪問して、提督と会いたいものだ」と書いてあった。
野村吉三郎大将が全権駐米大使と決まってから、ルーズベルトは側近に、「アドミラル・ノムラは私の最も良き日本の友人だ」と言って、そのワシントン到着を待ちわびていたという。