以上から、拡大派・不拡大派、その積極と慎重と、多少の差はあったものの、何れも対支紛争の発生を避けねばならぬという点においては一致していた。
そして、万一事件が起こった場合、これを局限せねばならぬという考えは、拡大派と言えども不拡大派と変わりはなかったし、また、どうしても対支協調ができなければ、不拡大派と言えども拡大派と同じく、対支一撃の必要を認めざるを得なかったのである。
つまり、拡大派・不拡大派論争の争点は、たんに出兵論とか対支一撃論とかにあったのではなかった。争点は実にその根本において蒋介石政権をいかに観るかにあったのである。
即ち、蒋介石政権が満州国を承認し、日本は冀東政権を返還し、日支提携して逐次東亜連盟の方向に進みうると考えていた石原莞爾少将らの主張。
蒋介石政権の抗日政策は満州回復まで不変であると見た喜多誠一少将らの意見。
これが当時における陸軍中央部の対支政策に現れてくる、いわゆる「拡大派・不拡大派」論争なるものの争点の根本を形成していた。
この状況下において、陸軍次官・梅津美治郎中将の立場は、どのようなものであったか。
昭和十二年七月十九日に、三個師団派兵について、陸軍省と参謀本部が会合し建議された。その時、陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部第一部長・石原莞爾少将が発言している。
それについて、「天皇3 二・二六事件」(児島襄・文春文庫・1981年)が、次の様に述べている(要約・軍歴等一部加筆)。
だが、現実には事態は急転して悪化の方向をたどり、その急変にはたぶんに近衛首相の姿勢が影響していた、といえるのである。
第二十九軍・宋哲元(そう・てつげん)軍長(清山東省・武衛右軍随営武備学堂卒・第二五混成旅旅長・国民軍第一一師長・西路総司令・国民革命軍第四方面軍総指揮・蒋介石軍に敗れる・第二九軍軍長・冀察政務委員会委員長・平津衛戍司令・第一集団軍総司令・引退・一九四〇年四月病死・享年五十六歳・陸軍上将・叙第一級)と支那駐屯軍との交渉は七月十八日、無事妥結が確認された。
当日、宋軍長が、支那駐屯軍司令官・香月清司(かづき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・陸軍歩兵学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功五級)を訪ねて、次の様に遺憾の意を表明したのである。
「自分は今回の事変についてはなはだ遺憾に思う。今後については、香月軍司令官の指導を仰ぎたいと思う」。
しかし、その翌日、七月十九日には、南京政府外交部は、「事態は両国の中央政府の間で解決すべきこと、また国際仲裁裁判にかけて裁定を求めるべきである」と言明した。
また、蒋介石は、「平和的解決を求めるが、我々は一個の弱国であっても、“最後の関頭”に到ったならば、全民族の生命を投げうってでも、国家の生存を求め、一致して抗戦する」と長文の声明を出した。(「関頭」とは、物事の重大きな分かれ目。大切な時、瀬戸際。)
中国内部では、中国共産党の指導もあって、抗日意識は日増しに高揚していた。この蒋介石の「最後の関頭」の声明がラジオで放送されると、北平(北京の旧称)市内では市民がラッパを吹き鳴らし、太鼓とドラを打って喚声をあげた。
当然、日本側は反発した。参謀本部と陸軍省はこれまでの意見の分裂を一挙に解消した形で、停止されていた内地三個師団の派兵が建議された。
参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・参謀本部附<国連空軍代表随員>・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)に反対意見を献言した。
そして、万一事件が起こった場合、これを局限せねばならぬという考えは、拡大派と言えども不拡大派と変わりはなかったし、また、どうしても対支協調ができなければ、不拡大派と言えども拡大派と同じく、対支一撃の必要を認めざるを得なかったのである。
つまり、拡大派・不拡大派論争の争点は、たんに出兵論とか対支一撃論とかにあったのではなかった。争点は実にその根本において蒋介石政権をいかに観るかにあったのである。
即ち、蒋介石政権が満州国を承認し、日本は冀東政権を返還し、日支提携して逐次東亜連盟の方向に進みうると考えていた石原莞爾少将らの主張。
蒋介石政権の抗日政策は満州回復まで不変であると見た喜多誠一少将らの意見。
これが当時における陸軍中央部の対支政策に現れてくる、いわゆる「拡大派・不拡大派」論争なるものの争点の根本を形成していた。
この状況下において、陸軍次官・梅津美治郎中将の立場は、どのようなものであったか。
昭和十二年七月十九日に、三個師団派兵について、陸軍省と参謀本部が会合し建議された。その時、陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部第一部長・石原莞爾少将が発言している。
それについて、「天皇3 二・二六事件」(児島襄・文春文庫・1981年)が、次の様に述べている(要約・軍歴等一部加筆)。
だが、現実には事態は急転して悪化の方向をたどり、その急変にはたぶんに近衛首相の姿勢が影響していた、といえるのである。
第二十九軍・宋哲元(そう・てつげん)軍長(清山東省・武衛右軍随営武備学堂卒・第二五混成旅旅長・国民軍第一一師長・西路総司令・国民革命軍第四方面軍総指揮・蒋介石軍に敗れる・第二九軍軍長・冀察政務委員会委員長・平津衛戍司令・第一集団軍総司令・引退・一九四〇年四月病死・享年五十六歳・陸軍上将・叙第一級)と支那駐屯軍との交渉は七月十八日、無事妥結が確認された。
当日、宋軍長が、支那駐屯軍司令官・香月清司(かづき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・陸軍歩兵学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功五級)を訪ねて、次の様に遺憾の意を表明したのである。
「自分は今回の事変についてはなはだ遺憾に思う。今後については、香月軍司令官の指導を仰ぎたいと思う」。
しかし、その翌日、七月十九日には、南京政府外交部は、「事態は両国の中央政府の間で解決すべきこと、また国際仲裁裁判にかけて裁定を求めるべきである」と言明した。
また、蒋介石は、「平和的解決を求めるが、我々は一個の弱国であっても、“最後の関頭”に到ったならば、全民族の生命を投げうってでも、国家の生存を求め、一致して抗戦する」と長文の声明を出した。(「関頭」とは、物事の重大きな分かれ目。大切な時、瀬戸際。)
中国内部では、中国共産党の指導もあって、抗日意識は日増しに高揚していた。この蒋介石の「最後の関頭」の声明がラジオで放送されると、北平(北京の旧称)市内では市民がラッパを吹き鳴らし、太鼓とドラを打って喚声をあげた。
当然、日本側は反発した。参謀本部と陸軍省はこれまでの意見の分裂を一挙に解消した形で、停止されていた内地三個師団の派兵が建議された。
参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・参謀本部附<国連空軍代表随員>・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)に反対意見を献言した。