陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

685.梅津美治郎陸軍大将(25)同意。ぜひ、そう願いたい。が、それは総理に相談し総理の自信を確かめた上でのことか

2019年05月10日 | 梅津美治郎陸軍大将
 参謀本部第一部長・石原莞爾少将の反対意見の要旨は次の通り。

 「日本陸軍の動員の可能師団は三十個師団にとどまり、そのうち、どうやりくりをつけても、十五個師団しか中国大陸には派遣できない。日中全面戦争となれば、わずか十五個師団では中国大陸を制覇することはおぼつかない」

 「しかも、閣下。ひとたび派兵すれば全面戦争化の危険は大であり、その結果はあたかもスペイン戦争におけるナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際の解決策、いや、日本を救う道はただ一つしかないと確信します」

 「その方策は、北支の全日本軍を山海関の満州国境まで撤退させ、近衛首相が南京に飛んで蒋介石と直接交渉することです」。

 陸軍大臣室には、陸軍次官・梅津美治郎中将と、軍務局軍事課長・田中新一(たなか・しんいち)大佐(新潟・陸士二五・陸大二五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・緬甸<ビルマ>方面軍参謀長・東北軍管区司令部附・終戦・著書「大戦突入の真相」元々社1955年・昭和五十一年九月死去・享年八十三歳)がいた。

 陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部第一部長・石原莞爾少将の言葉が終わると、次の様に言った。

 「同意。ぜひ、そう願いたい。が、それは総理に相談し総理の自信を確かめた上でのことか。また、その場合は、華北の邦人多年の権益財産は放棄するのか。満州国はそれで安定しうるのか」。

 これに対し、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、ぐっと詰まり、沈黙した。

 実は、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、近衛文麿首相に対して、すでに蒋介石との直接交渉を提案し、近衛首相も関心を示していた。

 現に、前日の七月十八日に近衛首相は、西園寺公私設秘書・原田熊雄(東京・京都帝国大学・男爵・日本銀行・加藤高明首相秘書官・住友合資会社・西園寺公私設秘書・貴族院男爵議員・終戦工作に従事・脳血栓で倒れる・終戦・昭和二十一年二月二十六日死去・享年五十七歳・著書「西園寺公と政局」岩波書店1950年)に、「広田外相か自身が南京に出向いてもよい」と告げている。

 だが、近衛首相が本心から、熱意をもって、政府や陸軍部内の反対を押し切っても、南京行きの決意を固めているかどうかは、参謀本部第一部長・石原莞爾少将にもわからなかった。

 また、近衛首相が出かければ必ず蒋介石との間に話し合いがまとまるという保証もなかったのである。

 参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、陸軍次官・梅津美治郎中将の反駁(はんばく=論じ返す)に対して、それ以上の意見を述べず、内地師団の派兵は閣議で決定された。

 この論議から推察できるが、陸軍次官・梅津美治郎中将は、断乎としての同意でもなく、また全然不同意でもない。

 与えられた条件の下で、あくまで合理性を貫こうとする冷徹な能吏として、重要局面の役割を果たしているのである。

 この論点で、重要なことは、不拡大派が拡大派に比べて、即ち、参謀次長・多田駿(ただ・はやお)中将(千葉・陸士一五・陸大二五・北京陸軍大学校教官・砲兵大佐・野砲第四連隊長・第一六師団参謀長・満州国軍政部最高顧問・少将・野重砲第四旅団長・支那駐屯軍司令官・中将・第一一師団長・参謀次長兼陸軍大学校長・第三軍司令官・北支那方面軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・終戦・A級戦犯指定・昭和二十三年十二月胃がんで死去・享年六十六歳・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)や参謀本部第一部長・石原莞爾少将が、陸軍大臣・杉山元大将や陸軍次官・梅津美治郎中将に比べて、より平和的で、より非侵略的であったという訳ではないということである。

 まして、これ以後、本格的な日中戦争から太平洋戦争へと広がっていく戦争の結果的責任を、拡大派の策謀であって、いわゆる皇道派や皇道派と強調しようとした近衛ら宮廷グループの意思ではなかったとするような見方は、歴史の偽造である。

 昭和十二年九月、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は関東軍参謀副長に転出させられた。