陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

258.山口多聞海軍中将(18)僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは勝てぬぞ

2011年03月04日 | 山口多聞海軍中将
 のどかな南海の島で、安閑と時を過ごし、さほど海軍力のないオーストラリアを相手に戦争をするのは、どうやら間違いだったようだ。山口少将もそう思った。

 そのうちに、空母「翔鶴」と「瑞鶴」が戦列に復帰した。南雲機動部隊は、インド洋に入り、セイロン島のコロンボ港の攻撃に移ることになった。

 「敵巡洋艦二隻見ゆ」。索敵中の偵察機から電文が入った。「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐は、「司令官、やっと獲物にありつけましたよ」と山口少将に言って、艦爆隊を率いて「蒼龍」から飛び上がっていった。

 発艦後一時間で、英国東洋艦隊の巡洋艦「コンウオール」と「ドーセットシャー」を発見、攻撃に移った。

 江草少佐が真っ先に急降下して、一番艦の後部に直撃弾を命中させた。江草少佐は「飛龍は二番艦をやれ」、「赤城は一番艦をやれ」と指示を出した。その十数分後に英国東洋艦隊の二隻の巡洋艦は撃沈された。

 四月九日には英国の空母「ハーミス」を撃沈した。だが「蒼龍」の艦爆も四機やられた。「蒼龍」飛行隊長・江草少佐にとって、英国の古い空母など本当はどうでもよかった。

 「あいつらは犬死ではないか。我々は米空母を攻撃するために苦しい訓練に堪え、ここまで来たのだ。インド洋くんだりで命を落とすとは」と江草少佐は思った。

 司令官・山口少将は、一人ぽつんと飛行甲板にたたずむ江草少佐をいち早く見つけ、司令官室に呼んだ。

 「つらいな。貴様の気持ちはよく分かる。一杯やらんか」と山口少将はウイスキーを勧めた。「みんないい奴らだった。なんで、こんなところで」と江草少佐は泣いた。そして吼えるように、次の様に言った。

 「司令官、我々はいつ米国機動部隊に攻撃をかけるのですか。我々の敵は米国です。英国や豪州と小競り合いをやったところで、何になるんですか。大局を見誤っているのではないですか」。

 ここ何年も、搭乗員たちと暮らしてきた山口少将は、一人一人の顔が走馬灯のように、浮かんでは消えた。山口少将は、パイロットではないが、パイロットの心理を最もよく理解していた司令官だった。

 いつも出撃のとき、「死んでこい」とハッパをかけたが、ひるむと逆にやられるケースが多いためだった。だから、心を鬼にして「死んでこい」と言い続けた。

 この日の午後、敵の双発爆撃機九機が飛来し、空母「赤城」の右後方に爆弾を投下した。投下されるまで誰も気づかなかったのである。すんでのところで「赤城」は被弾するところだった。

 油断であった。上空の零戦がすぐ追いかけ、六機を撃墜した。だが、「飛龍」分隊長・熊野澄夫大尉が戻らなかった。

 真珠湾では第二次攻撃隊の分隊長として「カネオヘ」飛行場を銃撃し、米軍機を炎上させた責任感の旺盛な青年士官だった。

 若く前途有望な青年が、戦争とはいえ、瞬時に命を失っていくのは慙愧の至りだった。この頃から淵田中佐の顔色が、さえなくなった。

 淵田中佐が、暗い顔で次のように言っているのを、何人かが聞いていた。

 「僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは、勝てぬぞ。早くここを引き揚げて、米国機動部隊との決戦に備えねば、間に合わぬぞ。馬鹿な参謀どもが取り巻いているからだ。山口さんに頼むしかない」。

 昭和十七年四月二十二日、第二航空戦隊は五ヶ月ぶりに母港の呉と佐世保にもどってきた。「蒼龍」は呉、「飛龍」は佐世保が母港である。

 山口少将は戦闘日誌等の処理が終わると、岩国の柱島に停泊中の戦艦「大和」に向かった。連合艦隊の旗艦は昭和十七年二月十二日から「長門」から「大和」に代わっていた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、すこぶる元気だった。そして山口少将に次のように言った。

 「大変、ご苦労をかけた。少しゆっくりしてもらいたいところだが、東京が空襲されたとあっては、太平洋艦隊を引きずり出して決戦を挑むしかあるまい」。

 山本大将の言った「東京空襲」は、四月十八日に、空母「ホーネット」を発艦した、ジミー・ドリットル中佐率いるB-25爆撃機十六機が、初めて日本を爆撃したことだ。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲した。