山岡重厚中将が書き遺した「私の軍閥観」に「三月事件」として次のような記述がある(要旨抜粋)。
私は当時教育総監部の先任課長をしていたが、三月十一日急に芝の飛行会館で会合があるから来てくれといわれ、出かけたところ、教育総監部からは私一人であった。
だが、永田大佐、岡村大佐が来ていて、実はこういう計画で軍部内閣を造りたい。宇垣さんの承諾も得ている。是非賛成してくれないかというとんでもない相談である。
私は「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない、いくら予算がとれぬとしても、また満州の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を犯して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。
高知の男で大佐の小畑敏四郎という人も来ていて、私の意見に賛同し、直ちにやめろといったので、永田も、岡村も、それではやめようと土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部及び陸軍省の方へ中止の手続きを取った。
この計画書は後で問題になったが、軍事課長の永田鉄山大佐の自筆のものであった。宇垣の意中を受けて軍務局長小磯国昭などが差し金を入れ永田が主になってやったと思う。
この当時から永田の思想は危険であった。永田は非常な秀才だがドイツに留学して国家総動員法に心酔し、日本の国へも必ず取り入れねばならないと信じ込んでしまったのだ。
ドイツの国家総動員法で強くいくと、議決をするとそれを上に出して決裁を受ける訳だが、この際上の者は自分の意思表示をして、これをやめさせることが出来ない仕組みになっており、全くのロボットでしかなくなる。
この採決が美しき、合法的な同意表示であると認めておる。故に日本の統帥事項とか、憲法の天皇の大権とかにふれてくると、永田一派の国家総動員法の仕組みでは、天皇大権は意味がないことになる。
これが天皇に軍部内閣を強要するという永田の思想の元である。ちょうどドイツ、イタリヤのファッショとでもいおうか、当時の最新のいわゆる合法的なハイカラ思想とされていた。これは決して永田だけでなく、軍部にも、官僚にも沢山あったようだ。
以上が、山岡重厚中将が「私の軍閥観」で述べている、三月事件中止の経過であるが、三月事件の歯止めとなったのが、真崎甚三郎中将だった。
真崎甚三郎中将は当時第一師団長(東京)だった。この三月事件のクーデター計画を三月十五日、磯谷廉介参謀長から報告を受けた真崎師団長は激怒した。(山岡中将は、三月十一日に中止に至ったと記しているが、徹底していなかったと思える)。
真崎師団長は「それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう。おれは警備司令官の命令があっても絶対に兵を出す事はできない。即刻陸軍省に行って、永田軍事課長にそう言ってくれ」と磯谷参謀長に命令した。
磯谷参謀長は永田軍事課長の元に行き、「その計画の中止」を求める真崎師団長の意図を伝えた。第一師団が動かなければ駄目だった。それで、クーデター計画は、中止に至った。
後に、皇道派の頂点に君臨した真崎教育総監を更迭させた、永田、東條ら統制派の中堅幕僚たちは、この三月事件当時は、真崎師団長を崇拝し、盛り立てようと必死だったのである。その経過は次のようなものであった。
「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、真崎甚三郎大佐が教育総監部第二課長から軍務局軍事課長に補されたのが、大正九年八月十日で、近衛歩兵第一連隊長に転出したのは大正十年七月十日である。
陸軍の重要ポストにしては、真崎大佐の在任期間が一年とは異例の短い期間だった。当時の陸軍省の首脳は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、軍事課高級課員・児玉友雄中佐(児玉源太郎大将の三男・後の中将)というように、上下を長州閥で固められていた真崎大佐は、サンドウィッチ状態で、思うように才幹を振えなかった。
だが、真崎大佐早期転出の原因は、陸軍の機密費に関することだった。真崎大佐が軍事課長として着任した当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮高級副官の四人だった。
この時、すでに大正七年分の機密費として七七〇万円が秘密裏に蓄積されつつあった。永田大佐の軍事課長というポストは、省内のすべてを知り尽くしている位のカナメの地位だった。
軍事課長に就任した真崎大佐は、この機密費の不正蓄積についてのある感触を得た。持前の正義感から、真崎大佐は直ちに軍の機密費の適正な使用と管理についての意見書を提出した。
私は当時教育総監部の先任課長をしていたが、三月十一日急に芝の飛行会館で会合があるから来てくれといわれ、出かけたところ、教育総監部からは私一人であった。
だが、永田大佐、岡村大佐が来ていて、実はこういう計画で軍部内閣を造りたい。宇垣さんの承諾も得ている。是非賛成してくれないかというとんでもない相談である。
私は「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない、いくら予算がとれぬとしても、また満州の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を犯して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。
高知の男で大佐の小畑敏四郎という人も来ていて、私の意見に賛同し、直ちにやめろといったので、永田も、岡村も、それではやめようと土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部及び陸軍省の方へ中止の手続きを取った。
この計画書は後で問題になったが、軍事課長の永田鉄山大佐の自筆のものであった。宇垣の意中を受けて軍務局長小磯国昭などが差し金を入れ永田が主になってやったと思う。
この当時から永田の思想は危険であった。永田は非常な秀才だがドイツに留学して国家総動員法に心酔し、日本の国へも必ず取り入れねばならないと信じ込んでしまったのだ。
ドイツの国家総動員法で強くいくと、議決をするとそれを上に出して決裁を受ける訳だが、この際上の者は自分の意思表示をして、これをやめさせることが出来ない仕組みになっており、全くのロボットでしかなくなる。
この採決が美しき、合法的な同意表示であると認めておる。故に日本の統帥事項とか、憲法の天皇の大権とかにふれてくると、永田一派の国家総動員法の仕組みでは、天皇大権は意味がないことになる。
これが天皇に軍部内閣を強要するという永田の思想の元である。ちょうどドイツ、イタリヤのファッショとでもいおうか、当時の最新のいわゆる合法的なハイカラ思想とされていた。これは決して永田だけでなく、軍部にも、官僚にも沢山あったようだ。
以上が、山岡重厚中将が「私の軍閥観」で述べている、三月事件中止の経過であるが、三月事件の歯止めとなったのが、真崎甚三郎中将だった。
真崎甚三郎中将は当時第一師団長(東京)だった。この三月事件のクーデター計画を三月十五日、磯谷廉介参謀長から報告を受けた真崎師団長は激怒した。(山岡中将は、三月十一日に中止に至ったと記しているが、徹底していなかったと思える)。
真崎師団長は「それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう。おれは警備司令官の命令があっても絶対に兵を出す事はできない。即刻陸軍省に行って、永田軍事課長にそう言ってくれ」と磯谷参謀長に命令した。
磯谷参謀長は永田軍事課長の元に行き、「その計画の中止」を求める真崎師団長の意図を伝えた。第一師団が動かなければ駄目だった。それで、クーデター計画は、中止に至った。
後に、皇道派の頂点に君臨した真崎教育総監を更迭させた、永田、東條ら統制派の中堅幕僚たちは、この三月事件当時は、真崎師団長を崇拝し、盛り立てようと必死だったのである。その経過は次のようなものであった。
「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、真崎甚三郎大佐が教育総監部第二課長から軍務局軍事課長に補されたのが、大正九年八月十日で、近衛歩兵第一連隊長に転出したのは大正十年七月十日である。
陸軍の重要ポストにしては、真崎大佐の在任期間が一年とは異例の短い期間だった。当時の陸軍省の首脳は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、軍事課高級課員・児玉友雄中佐(児玉源太郎大将の三男・後の中将)というように、上下を長州閥で固められていた真崎大佐は、サンドウィッチ状態で、思うように才幹を振えなかった。
だが、真崎大佐早期転出の原因は、陸軍の機密費に関することだった。真崎大佐が軍事課長として着任した当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮高級副官の四人だった。
この時、すでに大正七年分の機密費として七七〇万円が秘密裏に蓄積されつつあった。永田大佐の軍事課長というポストは、省内のすべてを知り尽くしている位のカナメの地位だった。
軍事課長に就任した真崎大佐は、この機密費の不正蓄積についてのある感触を得た。持前の正義感から、真崎大佐は直ちに軍の機密費の適正な使用と管理についての意見書を提出した。