だが、その後、政府に対する憲政党の官吏登用の要求問題が顕著になり、政府部内の憲政党を快く思わない連中が、旧官僚や実業家を集め、国民協会を解体して、新たに帝国党という新党を結成して、憲政党に対抗しようとする動きが出てきた。
このことが、政府と憲政党の間の感情を損ない、両者の提携も、断絶するに至った。だが、この断絶は、政府よりも憲政党に打撃を与えた。
というのは、政府はこれまで、すでに、憲政党を十分利用するだけ利用して、なすべき事業を成し遂げていた。これに対し、憲政党は政府に致命的な打撃を与える問題は持ち合わせていなかったのである。
明治三十三年五月、山縣有朋首相は、勇退の決心をしていた。憲政党と山縣内閣の提携が破れてから、その意を強くしていた。そして、密かに後任首相に桂太郎陸相を考えていた。
山縣首相は、諸元老に勇退の意を伝えたが、どの元老も後継首相になる者はいなかった。そこで、桂太郎陸相を推したら、諸元老も承諾した。
六月初旬、山縣首相は、桂陸相を官邸に招いて、内閣を引き受けるようにと、その意向を質した。諸元老の承諾も伝えたが、桂陸相は固辞した。山縣首相の留任を希望したのだ。
この様な成り行きから、山縣首相の辞職も決せず、後任首相も確定していないところへ、一大事が発生した。
北清事変である。内閣更迭問題は吹っ飛んでしまった。北進事変は「義和団の乱」とも呼ばれる。中国の清王朝で、義和団(秘密結社)が排外運動をおこし、西太后がこれを支持した。
明治三十三年六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告したので、国家間の戦争に拡大してしまった。日本を含む欧米八か国は、八か国同盟を結成し、義和団に対抗した。
八か国同盟軍は、二ケ月もたたないうちに、首都北京及び紫禁城を制圧した。清王朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされた。
北進事変後、桂陸相は病気になり、九月十五日から葉山で静養することになったが、九月二十一日、遂に辞表を提出した。だが、辞表は受理されなかった。
明治三十三年九月二十六日、山縣首相は辞表を提出した。ついで大命は政友会党首の伊藤博文に降った。
十月十九日、政友会を主力とする新内閣が発足した。第四次伊藤内閣である。桂陸相は留任であった。
だが、葉山から帰京したものの、桂陸相は十二月十四日、再び辞表を提出した。自ら参内して、内大臣・徳大寺実則に会い、辞表の執奏方を請うなど、真剣だった。徳大寺も了解し、奏聞し、ただちに聴許された。
伊藤博文首相も今度は、桂陸相の辞職を了承した。伊藤首相が後任問題を相談してきたので、桂陸相は、台湾総督・児玉源太郎中将を推薦した。
十二月二十三日、桂陸相は辞任し、児玉源太郎大将が陸軍大臣兼台湾総督に就任した。
伊藤首相が、桂太郎大将に向かって、「そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが……」と言ったと、後々まで語り伝えられている。
桂太郎大将が、これほど陸軍大臣の辞職を望んだのは、病気のせいもあったが、それ以外に次の三つの理由が考えられる。
一、 伊藤首相の下で陸軍大臣になれば、伊藤首相の後継者となることになり、それを嫌った。二、伊藤内閣の前途に不安を感じていた。三、山縣有朋元帥に対する義理立て。
桂太郎大将は、辞職が実現したので、再び葉山で静養することになった。以後七か月間、ほとんど、世事から離れて、静養につとめた。この頃、桂大将は次のような歌を詠んでいる。
「伊豆の山相模の海を我家のにはの景色と見るぞ楽しき」。
明治三十四年四月一日、桂大将は七カ月ぶりに東京へ行って、伊藤博文首相に面会した。以前伊藤に相談していた欧州への外遊の助力を請うためだった。
だが、当時、政局は紛糾、伊藤首相は一大難関に直面していた。第十五議会で、北清事変に関わる軍事費補填のための増税案が、貴族院の反対で苦闘していた。
このことが、政府と憲政党の間の感情を損ない、両者の提携も、断絶するに至った。だが、この断絶は、政府よりも憲政党に打撃を与えた。
というのは、政府はこれまで、すでに、憲政党を十分利用するだけ利用して、なすべき事業を成し遂げていた。これに対し、憲政党は政府に致命的な打撃を与える問題は持ち合わせていなかったのである。
明治三十三年五月、山縣有朋首相は、勇退の決心をしていた。憲政党と山縣内閣の提携が破れてから、その意を強くしていた。そして、密かに後任首相に桂太郎陸相を考えていた。
山縣首相は、諸元老に勇退の意を伝えたが、どの元老も後継首相になる者はいなかった。そこで、桂太郎陸相を推したら、諸元老も承諾した。
六月初旬、山縣首相は、桂陸相を官邸に招いて、内閣を引き受けるようにと、その意向を質した。諸元老の承諾も伝えたが、桂陸相は固辞した。山縣首相の留任を希望したのだ。
この様な成り行きから、山縣首相の辞職も決せず、後任首相も確定していないところへ、一大事が発生した。
北清事変である。内閣更迭問題は吹っ飛んでしまった。北進事変は「義和団の乱」とも呼ばれる。中国の清王朝で、義和団(秘密結社)が排外運動をおこし、西太后がこれを支持した。
明治三十三年六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告したので、国家間の戦争に拡大してしまった。日本を含む欧米八か国は、八か国同盟を結成し、義和団に対抗した。
八か国同盟軍は、二ケ月もたたないうちに、首都北京及び紫禁城を制圧した。清王朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされた。
北進事変後、桂陸相は病気になり、九月十五日から葉山で静養することになったが、九月二十一日、遂に辞表を提出した。だが、辞表は受理されなかった。
明治三十三年九月二十六日、山縣首相は辞表を提出した。ついで大命は政友会党首の伊藤博文に降った。
十月十九日、政友会を主力とする新内閣が発足した。第四次伊藤内閣である。桂陸相は留任であった。
だが、葉山から帰京したものの、桂陸相は十二月十四日、再び辞表を提出した。自ら参内して、内大臣・徳大寺実則に会い、辞表の執奏方を請うなど、真剣だった。徳大寺も了解し、奏聞し、ただちに聴許された。
伊藤博文首相も今度は、桂陸相の辞職を了承した。伊藤首相が後任問題を相談してきたので、桂陸相は、台湾総督・児玉源太郎中将を推薦した。
十二月二十三日、桂陸相は辞任し、児玉源太郎大将が陸軍大臣兼台湾総督に就任した。
伊藤首相が、桂太郎大将に向かって、「そのサーベルさえなければ、立派な政治家だが……」と言ったと、後々まで語り伝えられている。
桂太郎大将が、これほど陸軍大臣の辞職を望んだのは、病気のせいもあったが、それ以外に次の三つの理由が考えられる。
一、 伊藤首相の下で陸軍大臣になれば、伊藤首相の後継者となることになり、それを嫌った。二、伊藤内閣の前途に不安を感じていた。三、山縣有朋元帥に対する義理立て。
桂太郎大将は、辞職が実現したので、再び葉山で静養することになった。以後七か月間、ほとんど、世事から離れて、静養につとめた。この頃、桂大将は次のような歌を詠んでいる。
「伊豆の山相模の海を我家のにはの景色と見るぞ楽しき」。
明治三十四年四月一日、桂大将は七カ月ぶりに東京へ行って、伊藤博文首相に面会した。以前伊藤に相談していた欧州への外遊の助力を請うためだった。
だが、当時、政局は紛糾、伊藤首相は一大難関に直面していた。第十五議会で、北清事変に関わる軍事費補填のための増税案が、貴族院の反対で苦闘していた。