明治三十七年六月、参謀総長・大山巌大将は、満州軍総司令官に、参謀本部次長・児玉源太郎大将は満州軍総参謀長に就任した。
後任には、枢密顧問官・山縣有朋元帥が参謀総長、大本営附・長岡外史(ながおか・がいし)少将(山口・陸士旧二期・陸大一期・海軍大学校教官・軍務局第二軍事課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・欧州出張・少将・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将・第一三師団長・第一六師団長・予備役・帝国飛行協会副会長・衆議院議員・飛行館長・国民飛行会会長・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィッシェ等)が参謀次長に就任した。
対ロシア戦が順調に進んでくると、満州軍総司令官・大山大将と満州軍総参謀長・児玉大将は、皇太子(後の大正天皇)を出征、大総督として担ぎ出すことにした。
その上で、満州軍総司令部ではなく、陸軍大総督府を満州に置き、対ロシア戦の作戦立案・指揮、軍の統括を全て陸軍大総督府で行うというのだ。
これには、参謀総長・山縣元帥と陸軍大臣・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後陸軍少尉・大尉・陸軍士官学校生徒指令副官・西南戦争出征・閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学・公使館附武官・陸軍大臣官房副長・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功三級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・兼陸軍大学校校長事務取扱・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・陸軍大臣兼韓国統監・伯爵・兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国聖アレクサンドル・ネフスキー勲章等)が反対した。
満州軍総司令部と、陸軍省・参謀本部の対立は、対ロシア戦の主導権争いに発展し、大問題となった。山縣元帥も、児玉大将の企てを非難するようになった。児玉大将は将官以下の人事権の掌握まで主張したのだ。
思い余った山縣元帥は、とうとう桂太郎首相に、児玉大将を説得するように言った。桂首相自身も、山縣元帥や寺内中将の中央主導に同調していた。
桂首相は児玉大将と会見し、「満州軍総司令官は天皇に直隷し特に指定せられたる数軍を統括し作戦の指揮に任ず」という満州軍総司令部勤務令第一項を示した。また、指揮下には、第一軍、第二軍、第三軍、独立第一〇師団が入ることを明示した。
第三軍が行う最重要作戦である旅順攻撃も、満州軍総司令部にその作戦・指揮を満州軍総司令部に任すというのである。
以上が、桂首相が出した妥協案だった。さすがに頑固な児玉大将も、陸軍大総督府構想を引き下げた。
日露戦争は、旅順要塞攻撃、黄海海戦、遼陽会戦、奉天会戦など、日本軍は連戦連勝であった。さらに明治三十八年五月二十七日の日本海海戦では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
これにより、さすがにロシア国内では国民に動揺が見られ、ヨーロッパ諸国でもロシアは講和すべきだという論調が見られ始めた。日本の桂首相も、適当な時期が来れば、講和に応じても良いと考えていた。
明治三十八年八月十日、日露両国は、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのポーツマスで講和会議を開始した。
講和会議は、八月二十六日妥結し、九月四日、日本全権・小村壽太郎とロシア全権・セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。ポーツマス条約である。
だが、この条約で、日本が賠償金を放棄したことから、日本国内では不満の国民が多く、特に、九月五日には、東京で小村外交を弾劾する国民集会が開かれ、警官と衝突、数万の群衆が首相官邸や政府高官の邸宅、国民新聞社などに押しかけ、交番や電車を焼き討ちする暴動が起きた。
桂首相は、戒厳令をしき軍隊を出動させた。だが、その後も国民の不満は治まることなく、桂首相は、今後の政権運営は困難と見て、勇退を決意した。
明治三十九年一月七日、第一次桂内閣は退陣し、第一次西園寺公望内閣が発足した。西園寺首相は、前内閣の方針を受け継いで、特に桂太郎前首相の意見をよく参考にして諸政策を行なった。
だが、西園寺内閣は、閣僚の辞任が続くなど閣内の不統一、諸問題の不解決、山縣有朋元帥の不支持、桂太郎大将の内閣への不信などにより、困難を極めた。やがて波乱の内閣は幕を閉じることになる。
明治四十一年一月十五日に桂太郎大将が山縣有朋元帥に宛てて出した書簡には、西園寺内閣について次のように記している。
「財政ト云ヒ、外交ト内務ト云ヒ、一ツトシテ内閣全体ノ統一トテハ見ルモノ之ナク、此儘押シ移リ候トキハ、国家丸ハ何レ港ニ到着仕ルベキカ、其以テ掛念ノ至ニ御座候、……」。
この文言は、桂大将の西園寺内閣に対する評価を端的に表現しており、西園寺内閣成立時の親近感は失せて、不信の念を表白させている。
当時の思想・歴史・評論家である徳富蘇峰は、「(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた」と皮肉っており、「西園寺首相の、桂大将への大きな依存が、かえって政権を崩壊させたのである」と評している。
後任には、枢密顧問官・山縣有朋元帥が参謀総長、大本営附・長岡外史(ながおか・がいし)少将(山口・陸士旧二期・陸大一期・海軍大学校教官・軍務局第二軍事課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・欧州出張・少将・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将・第一三師団長・第一六師団長・予備役・帝国飛行協会副会長・衆議院議員・飛行館長・国民飛行会会長・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィッシェ等)が参謀次長に就任した。
対ロシア戦が順調に進んでくると、満州軍総司令官・大山大将と満州軍総参謀長・児玉大将は、皇太子(後の大正天皇)を出征、大総督として担ぎ出すことにした。
その上で、満州軍総司令部ではなく、陸軍大総督府を満州に置き、対ロシア戦の作戦立案・指揮、軍の統括を全て陸軍大総督府で行うというのだ。
これには、参謀総長・山縣元帥と陸軍大臣・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後陸軍少尉・大尉・陸軍士官学校生徒指令副官・西南戦争出征・閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学・公使館附武官・陸軍大臣官房副長・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功三級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・兼陸軍大学校校長事務取扱・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・陸軍大臣兼韓国統監・伯爵・兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国聖アレクサンドル・ネフスキー勲章等)が反対した。
満州軍総司令部と、陸軍省・参謀本部の対立は、対ロシア戦の主導権争いに発展し、大問題となった。山縣元帥も、児玉大将の企てを非難するようになった。児玉大将は将官以下の人事権の掌握まで主張したのだ。
思い余った山縣元帥は、とうとう桂太郎首相に、児玉大将を説得するように言った。桂首相自身も、山縣元帥や寺内中将の中央主導に同調していた。
桂首相は児玉大将と会見し、「満州軍総司令官は天皇に直隷し特に指定せられたる数軍を統括し作戦の指揮に任ず」という満州軍総司令部勤務令第一項を示した。また、指揮下には、第一軍、第二軍、第三軍、独立第一〇師団が入ることを明示した。
第三軍が行う最重要作戦である旅順攻撃も、満州軍総司令部にその作戦・指揮を満州軍総司令部に任すというのである。
以上が、桂首相が出した妥協案だった。さすがに頑固な児玉大将も、陸軍大総督府構想を引き下げた。
日露戦争は、旅順要塞攻撃、黄海海戦、遼陽会戦、奉天会戦など、日本軍は連戦連勝であった。さらに明治三十八年五月二十七日の日本海海戦では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
これにより、さすがにロシア国内では国民に動揺が見られ、ヨーロッパ諸国でもロシアは講和すべきだという論調が見られ始めた。日本の桂首相も、適当な時期が来れば、講和に応じても良いと考えていた。
明治三十八年八月十日、日露両国は、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのポーツマスで講和会議を開始した。
講和会議は、八月二十六日妥結し、九月四日、日本全権・小村壽太郎とロシア全権・セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。ポーツマス条約である。
だが、この条約で、日本が賠償金を放棄したことから、日本国内では不満の国民が多く、特に、九月五日には、東京で小村外交を弾劾する国民集会が開かれ、警官と衝突、数万の群衆が首相官邸や政府高官の邸宅、国民新聞社などに押しかけ、交番や電車を焼き討ちする暴動が起きた。
桂首相は、戒厳令をしき軍隊を出動させた。だが、その後も国民の不満は治まることなく、桂首相は、今後の政権運営は困難と見て、勇退を決意した。
明治三十九年一月七日、第一次桂内閣は退陣し、第一次西園寺公望内閣が発足した。西園寺首相は、前内閣の方針を受け継いで、特に桂太郎前首相の意見をよく参考にして諸政策を行なった。
だが、西園寺内閣は、閣僚の辞任が続くなど閣内の不統一、諸問題の不解決、山縣有朋元帥の不支持、桂太郎大将の内閣への不信などにより、困難を極めた。やがて波乱の内閣は幕を閉じることになる。
明治四十一年一月十五日に桂太郎大将が山縣有朋元帥に宛てて出した書簡には、西園寺内閣について次のように記している。
「財政ト云ヒ、外交ト内務ト云ヒ、一ツトシテ内閣全体ノ統一トテハ見ルモノ之ナク、此儘押シ移リ候トキハ、国家丸ハ何レ港ニ到着仕ルベキカ、其以テ掛念ノ至ニ御座候、……」。
この文言は、桂大将の西園寺内閣に対する評価を端的に表現しており、西園寺内閣成立時の親近感は失せて、不信の念を表白させている。
当時の思想・歴史・評論家である徳富蘇峰は、「(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた」と皮肉っており、「西園寺首相の、桂大将への大きな依存が、かえって政権を崩壊させたのである」と評している。