「今、どこを飛んでいるのだ」と聞くと、操縦士は「判りません」と答えた。これは大変だ、どうしてこんなことになったのか。通信士もいるだろうに……。
関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、一まず、関東軍司令官・梅津美治郎中将の横を通って、自席に戻ろうとした。
その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が「菅井参謀、左に海が見えるネ!」と一言、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、恐縮してしまった。
自席に戻るのを止めて、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席に行った。そして、高度を下げさせて、地上を見据えた。
鉄道線路が走っている。さらに高度を下げさせて、駅のプラットホームにある看板で、駅名を見ようとした。だが、無駄だった。あっという間に飛び去って、駅名の判読はできない。
操縦士に「油は大丈夫か?」と聞くと、「もう少ししかありません」と操縦士が答えた。
そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、どこか河原でもあったら、不時着しようと思った。燃料が亡くなってからでは、着陸もできないだろうと思ったのだ。
しばらく行くと、ちょっとした市街が見え、そのはずれに正方形の土塁に囲まれ、その中に四棟の建物があり、土塁の一角に小さな正方形の土塁が突出していた。
「ここは大田である」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、判断した。すなわち歩兵一個大隊が分駐している兵営に違いあるまい。
操縦士に対して、「大田だよ、大田だ、間違いない」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、言うと、操縦士は「え?大田ですか?」と腑に落ちない返事をした。
大田とすると、京城に引き返すか、大邸に飛ぶしかない。「油は大丈夫か、京城へ引き返せるか」と聞くと、操縦士は「京城へは無理です」という返事だった。
「大邸へはどうだ?」と聞くと、「大邸なら何とか……」と答えた。「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた。
軍司令官専用機は低空で大邸を目指して飛んだ。途中、山脈を越えねばならなかった。かろうじて、峠をすれすれに越したら、遙かに、大邸飛行場が見えた。
あとは、空中滑空で、大邸飛行場に滑り込んだ。ちょうど、この日は日曜日で、飛行場には宿直の者しかいなかった。
予定もなく、予告もなく、飛行場に飛び込んで来た飛行機に、宿直勤務者はびっくりしていた。
全く命拾いをしたのだが、不時着をして、関東軍司令官・梅津美治郎中将、さらに東久邇宮盛厚王殿下に事故でも起きたら大変だった。
軍司令官専用機は、大邸飛行場で給油をして、夕方、無事、福岡に着陸した。
この緊迫した機内の状況下で、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、「菅井参謀、左に海が見えるネ!」との一言だけで、他には一切何も言わなかった。
すべて、部下に任せてという、大度量であったと、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、尊敬の念を抱いた。
昭和十五年初頭、大本営作戦課課員から関東軍参謀部作戦課兵站班長に就任した今岡豊少佐(陸士三七・陸大四七)は、奉天の後方部隊の検閲に、関東軍司令官・梅津美治郎中将に随行した。
他の随行官は、関東軍参謀副長・遠藤三郎(えんどう・さぶろう)少将(山形・陸士二六・陸大三四恩賜・陸軍砲工学校高等科二三優等・陸軍大学校教官・野重砲第五連隊長・砲兵大佐・参謀本部教育課長・少将・浜松飛行学校教官・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・第三飛行団長・陸軍航空士官学校幹事・中将・陸軍航空士官学校長・陸軍航空本部総務部長・軍需省航空兵器総局長官・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズン入所・農業・参議院選挙で落選・日中友好元軍人の会結成・著書「日中十五年戦争と私・国賊・赤の将軍と人はいう」・昭和五十九年死去・享年九十一歳)を初め、兵器・経理・軍医・獣医の各部長。
奉天には、関東軍の後方機関のほかに、中央補給機関が陸軍大臣管轄の下に進出していたので、これらの機関を検閲する権限はないので査閲した。
当日、関東軍司令官・梅津美治郎中将を囲んで、随行官だけで、打ち解けて昼食をとった。
関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、一まず、関東軍司令官・梅津美治郎中将の横を通って、自席に戻ろうとした。
その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が「菅井参謀、左に海が見えるネ!」と一言、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、恐縮してしまった。
自席に戻るのを止めて、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席に行った。そして、高度を下げさせて、地上を見据えた。
鉄道線路が走っている。さらに高度を下げさせて、駅のプラットホームにある看板で、駅名を見ようとした。だが、無駄だった。あっという間に飛び去って、駅名の判読はできない。
操縦士に「油は大丈夫か?」と聞くと、「もう少ししかありません」と操縦士が答えた。
そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、どこか河原でもあったら、不時着しようと思った。燃料が亡くなってからでは、着陸もできないだろうと思ったのだ。
しばらく行くと、ちょっとした市街が見え、そのはずれに正方形の土塁に囲まれ、その中に四棟の建物があり、土塁の一角に小さな正方形の土塁が突出していた。
「ここは大田である」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、判断した。すなわち歩兵一個大隊が分駐している兵営に違いあるまい。
操縦士に対して、「大田だよ、大田だ、間違いない」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、言うと、操縦士は「え?大田ですか?」と腑に落ちない返事をした。
大田とすると、京城に引き返すか、大邸に飛ぶしかない。「油は大丈夫か、京城へ引き返せるか」と聞くと、操縦士は「京城へは無理です」という返事だった。
「大邸へはどうだ?」と聞くと、「大邸なら何とか……」と答えた。「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた。
軍司令官専用機は低空で大邸を目指して飛んだ。途中、山脈を越えねばならなかった。かろうじて、峠をすれすれに越したら、遙かに、大邸飛行場が見えた。
あとは、空中滑空で、大邸飛行場に滑り込んだ。ちょうど、この日は日曜日で、飛行場には宿直の者しかいなかった。
予定もなく、予告もなく、飛行場に飛び込んで来た飛行機に、宿直勤務者はびっくりしていた。
全く命拾いをしたのだが、不時着をして、関東軍司令官・梅津美治郎中将、さらに東久邇宮盛厚王殿下に事故でも起きたら大変だった。
軍司令官専用機は、大邸飛行場で給油をして、夕方、無事、福岡に着陸した。
この緊迫した機内の状況下で、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、「菅井参謀、左に海が見えるネ!」との一言だけで、他には一切何も言わなかった。
すべて、部下に任せてという、大度量であったと、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、尊敬の念を抱いた。
昭和十五年初頭、大本営作戦課課員から関東軍参謀部作戦課兵站班長に就任した今岡豊少佐(陸士三七・陸大四七)は、奉天の後方部隊の検閲に、関東軍司令官・梅津美治郎中将に随行した。
他の随行官は、関東軍参謀副長・遠藤三郎(えんどう・さぶろう)少将(山形・陸士二六・陸大三四恩賜・陸軍砲工学校高等科二三優等・陸軍大学校教官・野重砲第五連隊長・砲兵大佐・参謀本部教育課長・少将・浜松飛行学校教官・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・第三飛行団長・陸軍航空士官学校幹事・中将・陸軍航空士官学校長・陸軍航空本部総務部長・軍需省航空兵器総局長官・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズン入所・農業・参議院選挙で落選・日中友好元軍人の会結成・著書「日中十五年戦争と私・国賊・赤の将軍と人はいう」・昭和五十九年死去・享年九十一歳)を初め、兵器・経理・軍医・獣医の各部長。
奉天には、関東軍の後方機関のほかに、中央補給機関が陸軍大臣管轄の下に進出していたので、これらの機関を検閲する権限はないので査閲した。
当日、関東軍司令官・梅津美治郎中将を囲んで、随行官だけで、打ち解けて昼食をとった。