「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)には、野村吉三郎が、明治三十九年四月一日付けで、日露戦争の功により、功五級金鵄勲章、年金三百円、勲五等旭日章を授与されたとなっている。
だが、「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、「陸海軍将官人事総覧」(外山操・芙蓉書房・385頁・1981年)には、金鵄勲章の記載がないと述べている。
野村吉三郎大尉と海軍兵学校二六期の同期生に、清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇番・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)がいる。
清河純一大尉は、日本海海戦当時、連合艦隊参謀として、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みだったが、功四級金鵄勲章を授与されている。
ちなみに、野村吉三郎は、後に功二級金鵄勲章を授与されている。これは、第一次上海事変(昭和七年一月二十八日~三月三日)の時、中将として第三艦隊司令長官を務めた功績により功二級金鵄勲章を授与された。
日露戦争後、明治三十八年十一月、野村吉三郎大尉は、海軍兵学校教官(航海術)兼監事に補された。
海軍兵学校教官を一年余り在職後、野村吉三郎大尉は、明治三十九年十月、練習艦隊旗艦である防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)の航海長に転補された。
当時の練習艦隊司令官は富岡定恭(とみおか・さだやす)少将(長野・海兵五期・首席・海軍兵学校教頭心得・大佐・海軍兵学校教頭・装甲巡洋艦「八雲」艦長・一等戦艦「霧島」艦長・軍令部第一局長・少将・海軍兵学校校長・練習艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・旅順警備府司令長官・予備役・男爵・従三位・勲一等瑞宝章・功四級・大正六年七月死去・享年六十二歳)だった。
明治四十年一月三十一日、旗艦・防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)以下、防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)、防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)の三艦で、練習艦隊(司令官・富岡定恭少将)は、横須賀軍港を抜錨して遠洋航海の途についた。
この時、乗組んだ少尉候補生は、昨年、野村吉三郎大尉が海軍兵学校教官として指導教育した海軍兵学校三四期生一七五人だった。
この三四期には、後に連合艦隊司令長官になる、古賀峯一(こが・みねいち)少尉候補生(佐賀・海兵三四・一四番・海大一五期・連合艦隊参謀・大佐・在フランス国大使館附武官・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・一等巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第三班長・軍令部第二班長・軍令部第二部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・昭和十九年三月三十一日殉職・享年五十八歳・元帥・正三位・功一級)がいた。
ちなみに三四期の首席・佐古良一(さこ・りょういち)少尉候補生(山口・海兵三四期・首席・海大一五期・軍令部参謀・中佐・フランス駐在・海軍大学校教官・大正十三年二月死去・享年三十九歳)は三十九歳で早世している。
野村吉三郎大尉は、明治三十一年に海軍兵学校卒業後、少尉候補生として装甲艦「比叡」(二二〇〇トン・乗員三〇八名)で遠洋航海、明治三十四年に一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八三〇名)回航のためのイギリス出張に次いで、今回が三度目の海外渡航だった。
練習艦隊は、ハワイ、ニュージーランド、シンガポール、香港などに寄港し、六月三日に台湾西方の澎湖諸島に帰着した。その後、清国沿岸、大連、旅順を回り、朝鮮の仁川に投錨した。