当時の朝鮮を取り巻く国際情勢は次のようなものだった。
ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため、明治三十八年十一月、第二次日韓協約を締結した。
明治三十八年十二月二十一日、大日本帝国は、漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置し、韓国統監を任命した。
初代韓国統監には、伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・兵庫県知事・岩倉使節団の一員として欧米歴訪・初代工部卿・宮内卿・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・第二次~第四次内閣を組閣・初代韓国統監・韓国統監を辞任・明治四十二年十月二十六日ハルピン駅で安重根に暗殺される・享年六十九歳・公爵・従一位・菊花章頸飾・仏国レジオンドヌール勲章勲一等・英国バス勲章勲一等など)が就任した。
明治四十三年八月二十九日、大日本帝国は、「韓国併合二関スル条約」に基づいて、大韓帝国を併合して、支配下に置いた。
さて、明治四十年六月八日、朝鮮の仁川に上陸した練習艦隊の乗組員、少尉候補生らは朝鮮の首都京城を訪問した。
この時、練習艦隊司令官・富岡定恭少将を初め、参謀、練習艦隊の各艦長、士官ら一行は、初代大韓帝国皇帝に謁見した。
野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した。
初代大韓帝国皇帝に謁見した練習艦隊の士官は、野村吉三郎大尉の他に、次の様な主要な上級士官がいた。
先任参謀・斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)少佐(宮城・海兵二〇期・三番恩賜・海大四期・首席・米国駐在・英国駐在・一等戦艦「霧島」副長・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・海軍省人事局第一課兼第二課長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・第三艦隊参謀長・少将・呉鎮守府参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・軍令部次長・大正十五年七月軍令部次長在職のまま胃がんで死去・享年五十六歳・正四位・勲一等瑞宝章・功四級)。
後任参謀・田村丕顕(たむら・ひろあき)大尉(東京・子爵・米国アナポリス海軍兵学校卒・海兵二七期として処遇・米国出張・第一艦隊参謀・皇族附武官<高松宮宜仁親王附>・大佐・族附武官<東伏見宮依仁親王附>・一等戦艦「三笠」艦長・巡洋戦艦「春名」艦長・少将・横須賀防備隊司令・予備役・横須賀人事部軍事普及事務嘱託・仙台地方人事部普及事務嘱託・森岡地方人事部軍事普及事務嘱託・岩手県立六原青年道場道場長・大政翼賛会岩手支部常務委員・岩手県翼賛壮年団団長・昭和二十年一月死去・享年六十九歳・子爵・正三位・功五級)。
練習艦隊旗艦、防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・山縣文蔵(やまがた・ぶんぞう)大佐(山口・海兵一一期・一三番・戦艦「三笠」副長・台湾総督府海軍参謀長・砲艦「龍田」艦長・大佐・防護巡洋艦「新高」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「笠置」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「常磐」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・少将・朝鮮総督府附武官・佐世保鎮守府艦隊司令官・中将・予備役・昭和五年九月死去・享年六十七歳)。
防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・野間口兼雄(のまぐち・かねお)大佐(鹿児島・海兵一三期・六番・海大五期・海軍省副官兼大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員兼海軍省副官・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・海軍省軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・予備役・昭和十八年十二月死去・享年七十七歳・従二位・勲二等瑞宝章・功三級)。
防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・名和又八郎(なわまた・はちろう)大佐(福井・海兵一〇期・一七番・舞鶴鎮守府参謀・大佐・海軍省人事局第二課長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・巡洋戦艦「生駒」艦長・軍令部第四班長・少将・呉鎮守府参謀長・第三艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・昭和三年一月死去・享年六十四歳・従二位・勲一等瑞宝章・功四級)。
初代大韓帝国皇帝は高宗(ゴジョン=こうそう・李氏朝鮮第二十六代国王・大韓帝国初代皇帝・韓国併合後“太王”<王族>の称号を授与され徳壽李太王と称される・大正八年一月死去・享年六十六歳)だった。
ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため、明治三十八年十一月、第二次日韓協約を締結した。
明治三十八年十二月二十一日、大日本帝国は、漢城(現・ソウル特別市)に韓国統監府を設置し、韓国統監を任命した。
初代韓国統監には、伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・兵庫県知事・岩倉使節団の一員として欧米歴訪・初代工部卿・宮内卿・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・第二次~第四次内閣を組閣・初代韓国統監・韓国統監を辞任・明治四十二年十月二十六日ハルピン駅で安重根に暗殺される・享年六十九歳・公爵・従一位・菊花章頸飾・仏国レジオンドヌール勲章勲一等・英国バス勲章勲一等など)が就任した。
明治四十三年八月二十九日、大日本帝国は、「韓国併合二関スル条約」に基づいて、大韓帝国を併合して、支配下に置いた。
さて、明治四十年六月八日、朝鮮の仁川に上陸した練習艦隊の乗組員、少尉候補生らは朝鮮の首都京城を訪問した。
この時、練習艦隊司令官・富岡定恭少将を初め、参謀、練習艦隊の各艦長、士官ら一行は、初代大韓帝国皇帝に謁見した。
野村吉三郎大尉もこの一行に加わり、伊藤博文韓国統監に案内され、大韓帝国皇帝に謁見した。
初代大韓帝国皇帝に謁見した練習艦隊の士官は、野村吉三郎大尉の他に、次の様な主要な上級士官がいた。
先任参謀・斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)少佐(宮城・海兵二〇期・三番恩賜・海大四期・首席・米国駐在・英国駐在・一等戦艦「霧島」副長・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・海軍省人事局第一課兼第二課長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・第三艦隊参謀長・少将・呉鎮守府参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・練習艦隊司令官・軍令部次長・大正十五年七月軍令部次長在職のまま胃がんで死去・享年五十六歳・正四位・勲一等瑞宝章・功四級)。
後任参謀・田村丕顕(たむら・ひろあき)大尉(東京・子爵・米国アナポリス海軍兵学校卒・海兵二七期として処遇・米国出張・第一艦隊参謀・皇族附武官<高松宮宜仁親王附>・大佐・族附武官<東伏見宮依仁親王附>・一等戦艦「三笠」艦長・巡洋戦艦「春名」艦長・少将・横須賀防備隊司令・予備役・横須賀人事部軍事普及事務嘱託・仙台地方人事部普及事務嘱託・森岡地方人事部軍事普及事務嘱託・岩手県立六原青年道場道場長・大政翼賛会岩手支部常務委員・岩手県翼賛壮年団団長・昭和二十年一月死去・享年六十九歳・子爵・正三位・功五級)。
練習艦隊旗艦、防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・山縣文蔵(やまがた・ぶんぞう)大佐(山口・海兵一一期・一三番・戦艦「三笠」副長・台湾総督府海軍参謀長・砲艦「龍田」艦長・大佐・防護巡洋艦「新高」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「笠置」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「常磐」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・少将・朝鮮総督府附武官・佐世保鎮守府艦隊司令官・中将・予備役・昭和五年九月死去・享年六十七歳)。
防護巡洋艦「松島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・野間口兼雄(のまぐち・かねお)大佐(鹿児島・海兵一三期・六番・海大五期・海軍省副官兼大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員兼海軍省副官・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・海軍省軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・予備役・昭和十八年十二月死去・享年七十七歳・従二位・勲二等瑞宝章・功三級)。
防護巡洋艦「厳島」(四二一七トン・乗員三六〇名)艦長・名和又八郎(なわまた・はちろう)大佐(福井・海兵一〇期・一七番・舞鶴鎮守府参謀・大佐・海軍省人事局第二課長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・巡洋戦艦「生駒」艦長・軍令部第四班長・少将・呉鎮守府参謀長・第三艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・昭和三年一月死去・享年六十四歳・従二位・勲一等瑞宝章・功四級)。
初代大韓帝国皇帝は高宗(ゴジョン=こうそう・李氏朝鮮第二十六代国王・大韓帝国初代皇帝・韓国併合後“太王”<王族>の称号を授与され徳壽李太王と称される・大正八年一月死去・享年六十六歳)だった。