高木俊郎が週刊朝日に「戦死」を連載したとき、多数の手紙が著者に寄せられた。
その中に「花谷中将と幼年学校」と題した投書があった。要約すると次のようなものであった。
「この花谷将軍を中心とした、日本陸軍の悲劇はどうにもやりきれない。花谷だけでなく陸軍の軍人の中にはこういった傾向の人が少なくなかった」
「それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信となった陸軍幼年学校の教育だ。中学一、二年から入学し、三ヵ年徹底的な戦闘技術者としての訓練と、エリート軍人としての意識を叩き込まれる」
「そして士官学校を出て任官。さらにすぐれた者は陸大にいき軍の指導者になるが、この陸軍幼年学校出身者が日本陸軍の主流として君臨するのである」
「中学初級からせまい偏った教育を受けてきたら、その連中は一体どうなるのか。花谷中将の言動は、幼年学校出の単細胞でかたくなな自信家である。人間形成の最も大切な時代の教育は狭くかたくななものであってはならない」
花谷正大佐が満州国治安部高級顧問時代。黒岩少将が慰問団を新京中央飯店に招待したときのこと。
卓一つ隔てて蛮勇の噂の高い花谷大佐を、恐怖と尊敬をもって熱っぽく凝視していたのは、ほかならぬ黒岩少将であった。
また、黒岩少将を司令部に訪ねてきた花谷大佐が「黒岩おるか、花谷が来たといえ」と少将閣下を見下していた。その尊大さも、兵隊の噂になっていたという。
時代は少し遡って、松岡満鉄総裁主催の宴会が大連で開かれた時のこと。当時関東軍参謀であった花谷中佐も招かれていた。牧野海軍退役少将もいた。
宴の半ば、花谷参謀は牧野少将のところに来て、いきなりわけもなく「このハゲ頭!」と言って、ピシャリと、したたかにたたいた。そしてそのまま立ち去って行った。
牧野少将は、頭のつるつるハゲた、きわめて温厚な人であったが、さすがにこの時ばかりは、「何だ、けしからんことをする」と、憤激の色を見せた。周囲にいた人は多いに同情した。
<花谷正陸軍中将プロフィル>
明治27年1月5日生まれ。岡山県勝田郡広戸村出身。
大正3年5月陸軍士官学校卒(26期)。12月歩兵少尉第54連隊付。
大正7年7月歩兵中尉。
大正11年11月陸軍大学校卒(34期・六十八名中二十一位)。12月参謀本部付。
大正12年8月歩兵大尉。
大正14年5月参謀本部部員。12月参謀本部支那研究員。
昭和3年8月関東軍参謀。
昭和4年8月歩兵少佐。第37連隊大隊長。
昭和5年8月関東軍司令部付(奉天特務機関)。
昭和7年1月参謀本部付。6月第35連隊大隊長。
昭和8年8月歩兵中佐。参謀本部付(済南武官)。
昭和10年8月関東軍参謀。
昭和11年12月参謀本部付。
昭和12年3月第2師団司令部付。4月留守第2師団参謀長。8月歩兵大佐。11月第43連隊長。
昭和14年1月満州国顧問。
昭和15年3月陸軍少将。8月第29旅団長。
昭和16年12月第1軍参謀長。
昭和18年6月陸軍中将。10月第55師団長。
昭和20年7月9日第39軍参謀長。7月14日第18方面軍参謀長。
昭和21年7月復員、予備役。
戦後、憂国同志の集まりである「曙会」を主宰。
昭和32年8月28日、死去。肺ガンであった。享年63歳。
その中に「花谷中将と幼年学校」と題した投書があった。要約すると次のようなものであった。
「この花谷将軍を中心とした、日本陸軍の悲劇はどうにもやりきれない。花谷だけでなく陸軍の軍人の中にはこういった傾向の人が少なくなかった」
「それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信となった陸軍幼年学校の教育だ。中学一、二年から入学し、三ヵ年徹底的な戦闘技術者としての訓練と、エリート軍人としての意識を叩き込まれる」
「そして士官学校を出て任官。さらにすぐれた者は陸大にいき軍の指導者になるが、この陸軍幼年学校出身者が日本陸軍の主流として君臨するのである」
「中学初級からせまい偏った教育を受けてきたら、その連中は一体どうなるのか。花谷中将の言動は、幼年学校出の単細胞でかたくなな自信家である。人間形成の最も大切な時代の教育は狭くかたくななものであってはならない」
花谷正大佐が満州国治安部高級顧問時代。黒岩少将が慰問団を新京中央飯店に招待したときのこと。
卓一つ隔てて蛮勇の噂の高い花谷大佐を、恐怖と尊敬をもって熱っぽく凝視していたのは、ほかならぬ黒岩少将であった。
また、黒岩少将を司令部に訪ねてきた花谷大佐が「黒岩おるか、花谷が来たといえ」と少将閣下を見下していた。その尊大さも、兵隊の噂になっていたという。
時代は少し遡って、松岡満鉄総裁主催の宴会が大連で開かれた時のこと。当時関東軍参謀であった花谷中佐も招かれていた。牧野海軍退役少将もいた。
宴の半ば、花谷参謀は牧野少将のところに来て、いきなりわけもなく「このハゲ頭!」と言って、ピシャリと、したたかにたたいた。そしてそのまま立ち去って行った。
牧野少将は、頭のつるつるハゲた、きわめて温厚な人であったが、さすがにこの時ばかりは、「何だ、けしからんことをする」と、憤激の色を見せた。周囲にいた人は多いに同情した。
<花谷正陸軍中将プロフィル>
明治27年1月5日生まれ。岡山県勝田郡広戸村出身。
大正3年5月陸軍士官学校卒(26期)。12月歩兵少尉第54連隊付。
大正7年7月歩兵中尉。
大正11年11月陸軍大学校卒(34期・六十八名中二十一位)。12月参謀本部付。
大正12年8月歩兵大尉。
大正14年5月参謀本部部員。12月参謀本部支那研究員。
昭和3年8月関東軍参謀。
昭和4年8月歩兵少佐。第37連隊大隊長。
昭和5年8月関東軍司令部付(奉天特務機関)。
昭和7年1月参謀本部付。6月第35連隊大隊長。
昭和8年8月歩兵中佐。参謀本部付(済南武官)。
昭和10年8月関東軍参謀。
昭和11年12月参謀本部付。
昭和12年3月第2師団司令部付。4月留守第2師団参謀長。8月歩兵大佐。11月第43連隊長。
昭和14年1月満州国顧問。
昭和15年3月陸軍少将。8月第29旅団長。
昭和16年12月第1軍参謀長。
昭和18年6月陸軍中将。10月第55師団長。
昭和20年7月9日第39軍参謀長。7月14日第18方面軍参謀長。
昭和21年7月復員、予備役。
戦後、憂国同志の集まりである「曙会」を主宰。
昭和32年8月28日、死去。肺ガンであった。享年63歳。