西郷隆盛が遣韓使節として朝鮮に渡ることを主張(これが『征韓論』といわれる)し、岩倉具視、大久保利通らの自重論に敗れて鹿児島に帰ったのは、明治六年十月末だった。
台湾征討は、船が難破して台湾南部に漂着した宮古島島民六十六名のうち五十四名が、明治四年十一月、台湾原住民のアミ族に惨殺されたことが原因だった。
日本政府は、明治五年十月、台湾を領有する清国政府に対して、琉球人民を殺害した台湾原住民犯人の処分を要求した。
だが、清国側は、「生藩(せいばん=台湾原住民)はすでに、化外(教化の外)にある。生藩の罪を問う、問わぬは貴国の裁断に従えばよかろう」と答えた。
日本政府は、明治七年四月四日、陸軍中将・西郷従道を台湾藩地事務都督とする台湾征討軍の派遣を決定した。
ところが、パークス英国公使とデロング米国公使が、日本に対して局外中立を宣言し、両国籍輸送船の使用を拒絶した。
台湾征討に対して、列強が干渉し、清国に味方することを恐れた日本政府は、結局出兵中止に決定を変更した。
だが、西郷従道中将は、すでに天皇の大命も四月六日に下っていると反論し、四月二十七日に先発隊が出発していた後、五月二日、後発隊も出発させた。
以上の事実について、山本伝令使は、西郷海相に質したのだ。山本伝令使の問いは、西郷海相にとっては痛いはずだが、西郷海相は嫌な顔はせず、次の様に率直に答えた。
「第一の問いについては、深く話しとうごわはん。おいは大山(巌)と同様に欧州に留学(西郷従道は明治二年から三年にかけフランスに留学して、兵制を研究した。大山は明治四年から七年にかけジュネーブを根拠地として欧州各国を回り、大砲・小銃等の兵器を研究した)し、政治、教育、軍事その他を研究しもしたが、帰国してからも、いかにして維新の大業の基礎を確立すべきか、解決案を得ることができもはんでした」
「その当時、岩倉(具視)公一行が帰朝すっと(明治六年九月)、まず内政を改革し、財政を整理し、その後朝鮮問題を処理すべし、ちゅう方針を提議しもした。こいは当を得たものかもしれんと、おいは思めもうした」
「ことに兄を朝鮮に派遣すっちゅうは、死地に送ると同様じゃから、あくまでそいを阻止すっが国家のため適当と信じもした」
「しかし、いくら兄に見識があっても、岩倉公が政府の首席代理では、とうてい満足な結果が得られるはずがなか。そいで辞職して帰国するにしかずと決心したのでごわず」
「征韓論に関しては、その見方は二つあいもす。兄はその一つを採り、他の者は別の一つを採ったまででごわす。そいを、おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠くと痛感し、踏みとどまったのみで、兄もこいをよく諒解しちょいもした」。
西郷海相は、盃を干した。山本伝令使は、黙して聞いていた。
「第二の問いに答えもそ。大隈(重信・参議)氏から、『大久保氏長崎着まで待たれたし』ちゅう電報を受領しもしたが、先発隊はすでに出発後で、いかんともできもはん。後発部隊も出発させんければ、国家の面目に関する重大問題にないもすから、おいは全責任を負い、断乎として出発させもした」
「おいは大久保氏の長崎着(五月四日)を待ち、熟議のうえ、乗船して征台の途に就きもしたのでごわす」。
このように述べた、西郷海相は、悪びれた様子もなく、次の様に続けて言った。
「第三の問いについては、こげなことがあいもした。台湾問題終了後、おいは鹿児島に帰省し、兄(隆盛)に会い、兄の政府引退後の世情、政務について詳細に説明し、十分に諒解を得もした」。
この経緯について次の様に説明してある。
明治七年八月、参議・大久保利通は全権弁理大臣として北京に赴き、清国代表・李鴻章と交渉を重ねた。十月三十一日に至り、双方は台湾藩地に関する条約に調印し、ようやく和議が成立した。
台湾征討は、船が難破して台湾南部に漂着した宮古島島民六十六名のうち五十四名が、明治四年十一月、台湾原住民のアミ族に惨殺されたことが原因だった。
日本政府は、明治五年十月、台湾を領有する清国政府に対して、琉球人民を殺害した台湾原住民犯人の処分を要求した。
だが、清国側は、「生藩(せいばん=台湾原住民)はすでに、化外(教化の外)にある。生藩の罪を問う、問わぬは貴国の裁断に従えばよかろう」と答えた。
日本政府は、明治七年四月四日、陸軍中将・西郷従道を台湾藩地事務都督とする台湾征討軍の派遣を決定した。
ところが、パークス英国公使とデロング米国公使が、日本に対して局外中立を宣言し、両国籍輸送船の使用を拒絶した。
台湾征討に対して、列強が干渉し、清国に味方することを恐れた日本政府は、結局出兵中止に決定を変更した。
だが、西郷従道中将は、すでに天皇の大命も四月六日に下っていると反論し、四月二十七日に先発隊が出発していた後、五月二日、後発隊も出発させた。
以上の事実について、山本伝令使は、西郷海相に質したのだ。山本伝令使の問いは、西郷海相にとっては痛いはずだが、西郷海相は嫌な顔はせず、次の様に率直に答えた。
「第一の問いについては、深く話しとうごわはん。おいは大山(巌)と同様に欧州に留学(西郷従道は明治二年から三年にかけフランスに留学して、兵制を研究した。大山は明治四年から七年にかけジュネーブを根拠地として欧州各国を回り、大砲・小銃等の兵器を研究した)し、政治、教育、軍事その他を研究しもしたが、帰国してからも、いかにして維新の大業の基礎を確立すべきか、解決案を得ることができもはんでした」
「その当時、岩倉(具視)公一行が帰朝すっと(明治六年九月)、まず内政を改革し、財政を整理し、その後朝鮮問題を処理すべし、ちゅう方針を提議しもした。こいは当を得たものかもしれんと、おいは思めもうした」
「ことに兄を朝鮮に派遣すっちゅうは、死地に送ると同様じゃから、あくまでそいを阻止すっが国家のため適当と信じもした」
「しかし、いくら兄に見識があっても、岩倉公が政府の首席代理では、とうてい満足な結果が得られるはずがなか。そいで辞職して帰国するにしかずと決心したのでごわず」
「征韓論に関しては、その見方は二つあいもす。兄はその一つを採り、他の者は別の一つを採ったまででごわす。そいを、おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠くと痛感し、踏みとどまったのみで、兄もこいをよく諒解しちょいもした」。
西郷海相は、盃を干した。山本伝令使は、黙して聞いていた。
「第二の問いに答えもそ。大隈(重信・参議)氏から、『大久保氏長崎着まで待たれたし』ちゅう電報を受領しもしたが、先発隊はすでに出発後で、いかんともできもはん。後発部隊も出発させんければ、国家の面目に関する重大問題にないもすから、おいは全責任を負い、断乎として出発させもした」
「おいは大久保氏の長崎着(五月四日)を待ち、熟議のうえ、乗船して征台の途に就きもしたのでごわす」。
このように述べた、西郷海相は、悪びれた様子もなく、次の様に続けて言った。
「第三の問いについては、こげなことがあいもした。台湾問題終了後、おいは鹿児島に帰省し、兄(隆盛)に会い、兄の政府引退後の世情、政務について詳細に説明し、十分に諒解を得もした」。
この経緯について次の様に説明してある。
明治七年八月、参議・大久保利通は全権弁理大臣として北京に赴き、清国代表・李鴻章と交渉を重ねた。十月三十一日に至り、双方は台湾藩地に関する条約に調印し、ようやく和議が成立した。