陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

638.山本権兵衛海軍大将(18)山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか

2018年06月15日 | 山本権兵衛海軍大将
 清国政府は、日本政府に賠償金五十万元を支払い、日本軍は台湾から撤兵するというのが主な内容である。西郷従道は参謀らを従えて、十二月二十七日、横浜港に凱旋し、参内して明治天皇に復命して、その勲労を賞された。

 再び西郷海相は、山本伝令使に対して、次の様に話を続けた。

 「兄は、そいまでしばしばおいについて、種々の風説を聞いちょいもしたが、信ずべき根拠もないため、誤解されるこつはいささかもあいもはんでした」。

 この西郷海相の答えは、第一、第二問の答えと違い、不十分としかいえるものではなかった。しかし、山本伝令使は西郷海相の心中(隆盛を衷心から敬愛し、その死を誰よりも悲しむ)を察し、これを深く追求することは、この際為すべきことではないと思い、それ以上責めることは止めにした。

 しかし、山本伝令使にとっては、全体的には、予想よりはるかに満足できる答えであった。

 何年か後のことである。あるとき、西郷従道が、山本権兵衛に「山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか」と尋ねた。
 
 すると、山本は「奸物と思めもした。貴方のしたことが、横着者の所業に見えもした」と答えた。「そうでごわしたか」。西郷は、愉快そうにカラカラと笑った。

 山本権兵衛は、この、明治二十年八月半ば、長崎、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から聞いた談話について、晩年の大正十五年十月、雅号「鶴堂」の署名で、手記にしている。山本の生涯で、よほど印象が強く、忘れられない出来事だったのだろう。

 その手記は、「伯爵山本権兵衛伝・上・下」(故伯爵山本海軍大将伝記編纂会編・原書房)に所収されている。その中で、山本は次の様に記している。

 「予は南洲翁に対しては、常に絶大の尊敬を払いしも、西郷従道氏には深く親炙(しんしゃ=その人に近づき親しんで感化を受けること)するの機会少なく、又他より伝聞するところを総合判断するに、従道氏は翁とは違い、才子風にして能く人と交わり、殊に征韓論勃発に際しても、大山(巌)氏と同じく翁と進退を共にせず、却って大久保氏の意志に従い、高島(鞆之助陸軍中佐、のちに陸軍中将、陸相)・野津(野津鎮雄陸軍少将と野津道貫陸軍中佐の兄弟、鎮雄はのちに中将、道貫は後に大将、元帥)其他有力の人々を引き留めたる挙動に考え、実に不満に堪えざりしなり」

 「故に予は帰省の際(明治七年二月)、翁(隆盛)に向かい、左京の薩人中、知名の諸士に関し批評を加えたるとき、従道氏に及びたることありき」

 「……南洲翁の云わるるには、信吾(慎吾と二つ使っていた、従道のこと)は吉次郎(隆盛のすぐ下の弟、戊辰戦争の長岡城攻撃で戦死)と違い、少々小知恵がある故、或いはお咄しのようなこともありしならんか」

 「されど苟も君国の為め一意専心御奉公為すの大義は決して忘れては居らぬ筈と確信する、とのことなりき。蓋し翁の従道氏を思うの真情亦察するに余りありというべし」。

 以上が、山本権兵衛が、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から談話を聞く前までの、西郷従道への批判的評価だが、談話を聞き終わった後では、次のように述べて、評価が全く変わっている。

 「之由観之(これによってこれをみるに)、予(山本権兵衛)が従来西郷従道氏に対し、世上の伝聞等を根拠として抱きつつありたる想念は大いに誤れるものあるを識ることを得、それよりは相信じ相頼り、常に隔意なく、諸般の事につき所見を交換することとのれり」。

 明治二十年十月十日、海軍次官・樺山資紀(かばやま・すけのり)中将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐・西南戦争では熊本鎮台参謀長・警視総監兼陸軍少将・海軍大輔・海軍少将・中将・軍務局長・次官・海軍大臣・軍令部長・日清戦争・大将・初代台湾総督・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は欧米先進国海軍の視察に日本を出発した。

 山本権兵衛少佐は、日高壮之丞少佐(のち海軍大将)らと共に、海軍次官・樺山資紀中将の欧米先進国海軍の視察に随行した。

 防護巡洋艦「浪速」の回航委員として一年、さらに、この一年余りの欧米先進国海軍視察旅行で、山本少佐は、日本海軍建設の基礎知識を身につけた。