陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

11.石原莞爾陸軍中将(1) 上司との対立で数奇な運命をたどった天才軍人

2006年06月02日 | 石原莞爾陸軍中将
  『世界最終戦論』で当時の世界戦争の終局(二大国の決戦)を予測した天才軍人、石原莞爾陸軍中将は、その強烈な個性ゆえに上司との対立を繰り返し、数奇な運命をたどった。

<石原莞爾陸軍中将プロフィル>

 石原莞爾は1889(明治22)年1月18日、山形県鶴岡町(現、鶴岡市)生れ。
 
  1905(明治38)年7月仙台陸軍地方幼年学校卒。東京陸軍中央幼年学校卒業後1907(明治40)年6月歩兵第32連隊配属(山形)。

 1909(明治42)年陸軍士官学校(21期)卒(6番)。陸軍歩兵少尉任官、歩兵第65連隊。1913(大正2)年陸軍中尉。       

 1918(大正7)年陸軍大学校(30期)卒(2番)。1919(大正8)年日蓮宗「国柱会」信行員、4月陸軍大尉。

  1921(大正10)年陸軍大学校兵学教官。1922(大正11)年ドイツ駐在。1924(大正13)年陸軍少佐。陸軍大学校兵学教官。

  1928(昭和3)年陸軍中佐。関東軍作戦主任参謀。1931(昭和6)年9月18日満州事変勃発(関東軍作戦主任参謀)。

  1932(昭和7)年陸軍大佐・兵器行政本部付。1932(昭和7)年国際連盟総会臨時会議帝国代表随員(全権松岡洋右)。

1933(昭和8)年歩兵第4聯隊長(仙台)。1935(昭和10)年参謀本部第2課長(作戦)。

  1936(昭和11)年2月26日二・二六事件で戒厳司令部参謀兼務で事件処理。参謀本部戦争指導課長。

  1937(昭和12)年陸軍少将・参謀本部第1部長(作戦)、9月27日関東軍参謀副長、11月から駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを通じて対華和平交渉を行い、対中強行派の陸軍省と対立(トラウトマン工作)。

  1938(昭和13)年兼駐満武官、8月「予備役仰付願」「病気療養休暇願」を提出・帰国、12月5日舞鶴要塞司令官。

  1939(昭和14)年陸軍中将・第16師團長(京都)。1941(昭和16)年予備役編入、立命館大学教授(国防学)・「恩給をもらっているので給料は不要」と給料を断る。

  1942(昭和17)年9月立命館大学を辞す、甘粕正彦の仲介で陸相官邸で東條英機首相と会談。1944(昭和19)年7月小磯國昭首相と総理官邸で会談。

  1946(昭和21)年山形県飽海郡高瀬村(現 遊佐町)に転居。1947(昭和22)年極東国際軍事裁判(東京裁判)酒田出張法廷に証人として出廷。

  1949(昭和24)年8月15日肺炎と乳嘴腫の悪化のため死去。著作「世界最終戦論」

  石原と同じ陸軍士官学校21期の同期生には百武晴吉中将、飯村穣中将、富永信政大将らがいるが、石原ほど後世に語り継がれた軍人はいない。

  当時の世界の戦争の終局形態を予見した「世界最終戦論」の著者であり、軍人として天才的見識を有した石原莞爾陸軍中将は、「陸海軍けんか列伝」一人目で取り上げた佐藤市郎海軍中将と共通点が多々ある。

 二人とも1889年生まれ。佐藤中将に出された上司からの書簡ににある「余りの秀才は世間からうとまれるのではないかと思われる」との言葉が暗示するかのように、石原も上司と衝突を繰り返し数奇な軍人の生き方を余儀なくされた。

 また、二人とも大学校恩賜の秀才でありながら中将で不遇な職に左遷され、その後予備役に編入された。性格や信条も似たところが見られる。しばしば上官に対しても自分の信条を貫き通し、対立する事も辞さないことが二人に共通している。