陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

530.永田鉄山陸軍中将(30)次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう

2016年05月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田さんが柳川次官のところへ行って話をしていると、なかなか通りにくそうで、とにかく柳川次官の方でも理屈が多く、屁理屈を言っている。永田さんも負けずに屁理屈を言っている。

 山下軍事課長が柳川次官のところへ行くと、すぐ通る。また、新聞班長・鈴木貞一大佐が行くとすぐ通ってしまう。実際、そうだった。

 私(有末少佐)は、永田さんと柳川さんとのこういう関係を見ていると、ああこれはなかなか難しいなと感じた。柳川さんは永田さんにはそういう状況であるし、林陸軍大臣に対してもしっくりしていなかった。

 私は柳川次官に、「本気で大臣閣下を御補佐下さい」と訴えた。すると柳川次官は「俺だってやっているぞ。荒木大臣の時とちっとも違わない」と言われた。

 そこで私は「荒木さんの時には、蚊が喰うのを、ウチワでパタパタやりながら、もういいじゃないかと思うまでお話になっておられた。その姿は見ていて楽しかったのです。しかし、林さんの時には、不動の姿勢でちょっと話をしてすぐ帰られる。次官、もう少し努めてやってください」とお話しした。

 すると柳川次官は「実は私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のようにいきかねるよ」と率直に言われた。

 それで私は柳川さんに「次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう」と言った。すると柳川さんが「いや、しかしね、真崎さんが、おれ、と言うからな」と言われた。それで結局八月まで次官をしていることになった。

 以上が、永田鉄山少将が軍務局長になった頃までの陸軍中央内部の実態について、当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三少佐が証言した内容である。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、歩兵第一旅団長時代、永田少将は、一人で群馬県の川原温泉に滞在したことがあった。宿泊していた「敬業館」の主人の話では、次の様なエピソードがあった(要約・抜粋)。

 朝食が済むと永田鉄山少将は、毎日決まって、カンカン帽に浴衣がけ、懐に本を入れて、下の河原に出掛けた。河原の入り口に「河原公園」というのがあり、そこの親父が一風変わっており、河原へ下る入り口に柵を作っており、その柵を開けて下りる人に幾分かの茶代をもらうことにしていた。

 ところが永田少将は、その茶店の前を通っても、一言の挨拶も無く素通りしていた。ある日、その親父が、どうも怪しからぬ人だ、一つ今日は文句を言ってやろうと思った。

 この親父は多少洒落っ気のある男だったので、半紙を短冊型にして歌を書き、それを永田少将に、「お客様!御返歌を」と差し出した。その歌は次の通り。

 「日々にわが園見舞う君こそは 神と思ひて末頼むらん」。

 すると永田少将は、「俺はこういうことは余りうまくない。今日は駄目だから、明日まで待ってくれ」と言った。

 その翌日、やって来た永田少将は、茶店に腰をかけ、「親爺さん、紙を貸してくれ」と言って次のような歌を書き、「ほい来た」と親爺に差し出した。

 「非常時を乗り切らむ糧の魂と身を 鍛へまほしと君が園訪ひぬ 昭和八年菊月上浣 鉄山」。

 この歌を見た親父は、「どうせ大した人でもない、歌も、俺位なものだ」と思って木箱の引き出しにしまっておいた。

 ところが、後に、軍務局長惨殺事件が新聞で報道され、大見出しで「永田鉄山」とあるのを見て、どうも聞いたことのある名だと、そこで木箱の引出しを開けて、短冊の歌を見た。

 すると、「鉄山」と同じ字だった。それで、そんな偉い人だったのか、失礼な事をして申し訳なかったと思った。それからその親爺は、その永田少将の歌を台紙に貼り付けて、壁に掛け、朝夕冥福を祈った。

 また、当時永田少将の私宅に公用で出入りしていた人の話では、地位権勢名望飛ぶ鳥を落とすほどの境遇にありながら、客間の飾り付けがいかにも質素だった。床の間には年中変わらぬ一軸が掛けられており、身分相応な四季それぞれの軸物位は揃えたらいいのにと思われた。

 また、永田少将が唯一揮毫したという、在郷軍人会の班旗の揮毫を願いに永田邸を訪ねたという田中氏は、次のように述べている。

 「今をときめく将軍の御屋敷には、あまりにも質素だ、二階に座敷が三つ、階下に室が三つか、四つらしい、庭も狭くて往来に添っている、御屋敷を出て振り返れば、非常時の日本の今、傑材と讃えられる名将軍の邸とも思われぬ」