「司令、降ります。かならず雨になります」と板倉中尉が言った途端、ポカッ! ポカッ!と、連続ダブルパンチをくらった。
苦労人の先任将校(水雷長)・日下敏夫(くさか・としお)大尉(徳島・海兵五三・少佐・伊一二一艦長・呂六三艦長・伊一七四艦長・伊一八〇艦長・伊二六艦長・中佐・伊四〇〇艦長)が、「鉄砲、あまり向きになるな。泣く子と地頭には勝てんというではないか」と、慰めてくれたが、板倉中尉の腹の虫は容易におさまらなかった。
第二潜水戦隊が、東シナ海で昼間襲撃の演習をして、旅順港外に入泊したときのことである。単独行動の多い潜水艦は、入港と同時に、旗艦あてに着電を打つことになっていた。
何事によらず、遅れをとったり、負けることの嫌いな石崎司令は、投錨と同時に「通信長、着電を打ったか?」と言った。
板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」。危険信号だった。
しかし、戦務は守らなければならない。「旗艦が視界内にいるときは、無線は使用できません。発行信号で報告します」と板倉中尉は答えた。
これ位の事を知らない石崎司令ではなかったが、いまだかつて、部下―それも、嘴の黄色い中尉ふぜいから言葉を返されたことはなかった。
「打てといったら、打てッ!」。怒り心頭に達した石崎司令の大喝が、頭のてっぺんから落ちてきた。だが、板倉中尉は、あえて屈することなく「司令、視界内で着電を発信したら、問題になりますよ」と言った。
言い終わらぬうちに、石崎司令のげんこつが、ポカッ!ときて、板倉中尉の帽子が吹っ飛んで海中に落ちた。
ふだんから戦務にうるさい栢原艦長までが、おろおろしながら、「通信長、司令が言われるとおりに、着電を発信するんだ……」と言った。
かくして、無線封止は破られた。上官の意地が、面子が、重大な戦務を無視したのだ。平時だから、といってすまされない、と板倉中尉は思った。
その翌日、旗艦の「長鯨」で、演習に関する研究会が開催された。その席で通信参謀が、「昨日、視界内にもかかわらず着電を打ってきた潜水艦がある。本行動中、電波の輻射は厳に禁じられている。特に、艦の行動に関する場合は、全て視覚通信を使用するよう指導されたい」と指摘した。
あたかも、若い通信長の落ち度であるかのような発言だったが、苦虫を噛み潰したような石崎司令の横顔を見て、板倉中尉の胸の溜飲がいっぺんに下がった。
昭和十二年七月の暑い盛り、板倉中尉は赤痢の疑いで志布志の東郷病院に入院させられた。骨休みも悪くないと思っていたが、絶食がつらかった。
入院して間もなく、七月七日、地元の国防婦人会が数名見舞いに来て、盧溝橋事件が伝えられた。さあ、一大事、入院どころではないと、板倉中尉は思った。
だが、老院長は頑として退院させてくれなかった。所定の潜伏期間が過ぎるまで駄目だといって、耳を貸さなかった。何しろ、赤痢は法定伝染病だった。
そこで一計を案じた。夕闇にまぎれて板倉中尉は病室を抜け出し、裏通りの飲み屋でビールを飲み始めた。六本あけたところで、女将から勘定を請求された。
一見の客であり、病衣ときては当然だった。板倉中尉は「金は東郷病院にあずけている。院長に電話して、すぐ持ってくるように伝えろ」と女将に言った。
案の定、カンカンに怒った院長が、「すぐ退院してもらいます。あなたのような患者をあずかることはできない」と言った。
院長を怒らせて退院することができたが、板倉中尉は艦隊の所在が分からなかった。鎮守府に電話しても、身分の証明ができないため相手にされなかった。
いろいろ考えたすえ、おそらく艦隊は燃料を補給するだろうと思い、板倉中尉は陸路、徳山に直行することにした。
だが、徳山に着いたとき、一足遅れで、艦隊は徳山をあとにしていた。行き先も不明だった。途方に暮れて燃料廠を訪ねた。
苦労人の先任将校(水雷長)・日下敏夫(くさか・としお)大尉(徳島・海兵五三・少佐・伊一二一艦長・呂六三艦長・伊一七四艦長・伊一八〇艦長・伊二六艦長・中佐・伊四〇〇艦長)が、「鉄砲、あまり向きになるな。泣く子と地頭には勝てんというではないか」と、慰めてくれたが、板倉中尉の腹の虫は容易におさまらなかった。
第二潜水戦隊が、東シナ海で昼間襲撃の演習をして、旅順港外に入泊したときのことである。単独行動の多い潜水艦は、入港と同時に、旗艦あてに着電を打つことになっていた。
何事によらず、遅れをとったり、負けることの嫌いな石崎司令は、投錨と同時に「通信長、着電を打ったか?」と言った。
板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」。危険信号だった。
しかし、戦務は守らなければならない。「旗艦が視界内にいるときは、無線は使用できません。発行信号で報告します」と板倉中尉は答えた。
これ位の事を知らない石崎司令ではなかったが、いまだかつて、部下―それも、嘴の黄色い中尉ふぜいから言葉を返されたことはなかった。
「打てといったら、打てッ!」。怒り心頭に達した石崎司令の大喝が、頭のてっぺんから落ちてきた。だが、板倉中尉は、あえて屈することなく「司令、視界内で着電を発信したら、問題になりますよ」と言った。
言い終わらぬうちに、石崎司令のげんこつが、ポカッ!ときて、板倉中尉の帽子が吹っ飛んで海中に落ちた。
ふだんから戦務にうるさい栢原艦長までが、おろおろしながら、「通信長、司令が言われるとおりに、着電を発信するんだ……」と言った。
かくして、無線封止は破られた。上官の意地が、面子が、重大な戦務を無視したのだ。平時だから、といってすまされない、と板倉中尉は思った。
その翌日、旗艦の「長鯨」で、演習に関する研究会が開催された。その席で通信参謀が、「昨日、視界内にもかかわらず着電を打ってきた潜水艦がある。本行動中、電波の輻射は厳に禁じられている。特に、艦の行動に関する場合は、全て視覚通信を使用するよう指導されたい」と指摘した。
あたかも、若い通信長の落ち度であるかのような発言だったが、苦虫を噛み潰したような石崎司令の横顔を見て、板倉中尉の胸の溜飲がいっぺんに下がった。
昭和十二年七月の暑い盛り、板倉中尉は赤痢の疑いで志布志の東郷病院に入院させられた。骨休みも悪くないと思っていたが、絶食がつらかった。
入院して間もなく、七月七日、地元の国防婦人会が数名見舞いに来て、盧溝橋事件が伝えられた。さあ、一大事、入院どころではないと、板倉中尉は思った。
だが、老院長は頑として退院させてくれなかった。所定の潜伏期間が過ぎるまで駄目だといって、耳を貸さなかった。何しろ、赤痢は法定伝染病だった。
そこで一計を案じた。夕闇にまぎれて板倉中尉は病室を抜け出し、裏通りの飲み屋でビールを飲み始めた。六本あけたところで、女将から勘定を請求された。
一見の客であり、病衣ときては当然だった。板倉中尉は「金は東郷病院にあずけている。院長に電話して、すぐ持ってくるように伝えろ」と女将に言った。
案の定、カンカンに怒った院長が、「すぐ退院してもらいます。あなたのような患者をあずかることはできない」と言った。
院長を怒らせて退院することができたが、板倉中尉は艦隊の所在が分からなかった。鎮守府に電話しても、身分の証明ができないため相手にされなかった。
いろいろ考えたすえ、おそらく艦隊は燃料を補給するだろうと思い、板倉中尉は陸路、徳山に直行することにした。
だが、徳山に着いたとき、一足遅れで、艦隊は徳山をあとにしていた。行き先も不明だった。途方に暮れて燃料廠を訪ねた。