格納庫がグルグル回りながら矢のように後ろに流れていった。板倉候補生は生きた心地もなかった。二、三回ジャンプして草むらに不時着した。
全身の力が抜け、練習機から降りるなり、板倉候補生は教官からどやしつけられ、目から火が出るほど殴られた。飛行学生への夢は、これで、はかなくも吹っ飛んでしまった。
昭和十年四月一日、板倉光馬候補生は海軍少尉に任官した。そして同日付けで戦艦「扶桑」(三〇六五〇トン)乗組を命じられた。
板倉少尉はどうも戦艦勤務になじめなかった。飛行気乗りになれなかったこともあるが、多分に天の邪気的な発想によるものと思われる。
戦艦「扶桑」勤務三ヶ月で、重巡洋艦「最上」(一二二〇〇トン)に転勤した。この重巡洋艦「最上」は、当時の最新鋭艦であり、士官は一流の人物が配員されていた。
艦長は男爵・鮫島具重(さめじま・ともしげ)大佐(東京・祖父は岩倉具視・海兵三七・海大二一・男爵・皇族附武官・重巡洋艦「最上」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・第十三戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第四艦隊司令長官・第八艦隊司令長官)だった。
板倉少尉はこれまで、ずいぶんアウトロー的な失敗を繰り返してきたが、海軍の制度や慣習に不満があったわけではなかった。
むしろ、卓越した気風と、長年培われてきた伝統に、限りない愛着と誇りを抱いてきたのだが、ただ一つだけ、気に食わないことがあった。
それは、士官に限り、帰艦時刻が守られないことだった。由来、海軍では五分前の精神が強調され、全ての作業や隊務が律せられてきた。
ところが、こと帰艦時刻に限り、この特筆すべき美風が平然と無視され、無造作に破られながら、恬としてかえりみられなかった。
しかも、この傾向は上級士官になるほどひどく、艦長迎えにいたっては、ときに朝まで待たされることがあった。当直将校から、「艦長迎え」の声がかかると、大急ぎで応急糧食を用意したものである。
板倉少尉は海軍兵学校生徒のとき、「英国海軍」という本を読んだことがあった。そのなかに、強調すべき徳目として、「人は船を待つが、船は人を待たない」とあった。恐らく、英国の士官も帰艦にルーズだったのだろう。
なお、艦長以上の高級士官が艦を出入りするとき、舷門の衛兵が、ピーヒョーと笛を吹く儀礼がある。これは、帆船時代に、艦長が泥酔して舷梯を登れないとき、モッコに入れて吊り上げたのだが、その際、作業員の合図に笛を吹いた名残だった。
日本帝国海軍の諸令則には、帰艦時刻に遅れた場合の罰則が明記されており、戦時には逃亡罪が適用されるが、遺憾ながら、この罰則を適用されるのは下士官兵に限られていた。
それだけに、帰艦時刻を守らない海軍士官の態度が苦々しく、絶えず、心のしこりとなって、板倉少尉の胸中深くくすぶり続けていた。
未曾有ともいえる自然の猛威に叩きのめされて、東京湾に入港したときは蘇生の思いだった。その翌日、朝から上陸が許されたので、酒に目のない板倉少尉は、懐中無一文になるまで飲みまわった。
それでも、一七三〇陸発の定期便を気にしながら芝浦の桟橋に急いだ。暮れやすい秋の日は釣瓶落としに日がかげり、ごったがえしている埠頭には、早くも夕闇がただよっていた。その中にケップガン山本中尉の顔も見られた。
桟橋は各艦の舟艇が織るように着いては離れ、そのあとに上陸員や見学者を満載したランチがすべりこんでくる。
だが、「最上」の定期便は待てど暮らせどいっこうに姿を見せなかった。予定の時刻はとっくに過ぎていた。首を長くして、腕時計をのぞきこんでいるのは、「最上」の乗組員だけだった。
板倉少尉の胸中には、だいぶ前から、黒い憤怒がむらむらと鎌首を持ち上げていた。その矢先に、ケップガンが、「今日は艦長のお客さんが多いので、定期便が遅れたのであろう」と、こともなげに、つぶやいた。
男爵である艦長が、大勢の華族を招待したのであろうことはうなずける。それならば、乗艇の時間を早めるとか、別便を仕立てるとか、手段はいくらでもあると板倉少尉は思った。
定期便は公便である。とすれば、公私の別は、時と場所を選ぶべきものではない。一艦の士気と軍紀は、ガンルーム士官の双肩にあるといわれている。
公便が三十分以上も遅れているのに、平然と容認するケップガンの態度が憤怒に油を注いだ。酒の勢いも手伝って、板倉少尉は怒りにブルブルふるえた。
ちょうどその時、「最上」のランチが着いた。その途端に、何かわめきながら突進したことは、板倉少尉は覚えていた。
板倉少尉が気が付いたとき、二、三人の士官に両腕を取られたまま、ランチに連れ込まれていた。しばらくは、何がなにやらさっぱり分からなかったが、正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした。
全身の力が抜け、練習機から降りるなり、板倉候補生は教官からどやしつけられ、目から火が出るほど殴られた。飛行学生への夢は、これで、はかなくも吹っ飛んでしまった。
昭和十年四月一日、板倉光馬候補生は海軍少尉に任官した。そして同日付けで戦艦「扶桑」(三〇六五〇トン)乗組を命じられた。
板倉少尉はどうも戦艦勤務になじめなかった。飛行気乗りになれなかったこともあるが、多分に天の邪気的な発想によるものと思われる。
戦艦「扶桑」勤務三ヶ月で、重巡洋艦「最上」(一二二〇〇トン)に転勤した。この重巡洋艦「最上」は、当時の最新鋭艦であり、士官は一流の人物が配員されていた。
艦長は男爵・鮫島具重(さめじま・ともしげ)大佐(東京・祖父は岩倉具視・海兵三七・海大二一・男爵・皇族附武官・重巡洋艦「最上」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・第十三戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第四艦隊司令長官・第八艦隊司令長官)だった。
板倉少尉はこれまで、ずいぶんアウトロー的な失敗を繰り返してきたが、海軍の制度や慣習に不満があったわけではなかった。
むしろ、卓越した気風と、長年培われてきた伝統に、限りない愛着と誇りを抱いてきたのだが、ただ一つだけ、気に食わないことがあった。
それは、士官に限り、帰艦時刻が守られないことだった。由来、海軍では五分前の精神が強調され、全ての作業や隊務が律せられてきた。
ところが、こと帰艦時刻に限り、この特筆すべき美風が平然と無視され、無造作に破られながら、恬としてかえりみられなかった。
しかも、この傾向は上級士官になるほどひどく、艦長迎えにいたっては、ときに朝まで待たされることがあった。当直将校から、「艦長迎え」の声がかかると、大急ぎで応急糧食を用意したものである。
板倉少尉は海軍兵学校生徒のとき、「英国海軍」という本を読んだことがあった。そのなかに、強調すべき徳目として、「人は船を待つが、船は人を待たない」とあった。恐らく、英国の士官も帰艦にルーズだったのだろう。
なお、艦長以上の高級士官が艦を出入りするとき、舷門の衛兵が、ピーヒョーと笛を吹く儀礼がある。これは、帆船時代に、艦長が泥酔して舷梯を登れないとき、モッコに入れて吊り上げたのだが、その際、作業員の合図に笛を吹いた名残だった。
日本帝国海軍の諸令則には、帰艦時刻に遅れた場合の罰則が明記されており、戦時には逃亡罪が適用されるが、遺憾ながら、この罰則を適用されるのは下士官兵に限られていた。
それだけに、帰艦時刻を守らない海軍士官の態度が苦々しく、絶えず、心のしこりとなって、板倉少尉の胸中深くくすぶり続けていた。
未曾有ともいえる自然の猛威に叩きのめされて、東京湾に入港したときは蘇生の思いだった。その翌日、朝から上陸が許されたので、酒に目のない板倉少尉は、懐中無一文になるまで飲みまわった。
それでも、一七三〇陸発の定期便を気にしながら芝浦の桟橋に急いだ。暮れやすい秋の日は釣瓶落としに日がかげり、ごったがえしている埠頭には、早くも夕闇がただよっていた。その中にケップガン山本中尉の顔も見られた。
桟橋は各艦の舟艇が織るように着いては離れ、そのあとに上陸員や見学者を満載したランチがすべりこんでくる。
だが、「最上」の定期便は待てど暮らせどいっこうに姿を見せなかった。予定の時刻はとっくに過ぎていた。首を長くして、腕時計をのぞきこんでいるのは、「最上」の乗組員だけだった。
板倉少尉の胸中には、だいぶ前から、黒い憤怒がむらむらと鎌首を持ち上げていた。その矢先に、ケップガンが、「今日は艦長のお客さんが多いので、定期便が遅れたのであろう」と、こともなげに、つぶやいた。
男爵である艦長が、大勢の華族を招待したのであろうことはうなずける。それならば、乗艇の時間を早めるとか、別便を仕立てるとか、手段はいくらでもあると板倉少尉は思った。
定期便は公便である。とすれば、公私の別は、時と場所を選ぶべきものではない。一艦の士気と軍紀は、ガンルーム士官の双肩にあるといわれている。
公便が三十分以上も遅れているのに、平然と容認するケップガンの態度が憤怒に油を注いだ。酒の勢いも手伝って、板倉少尉は怒りにブルブルふるえた。
ちょうどその時、「最上」のランチが着いた。その途端に、何かわめきながら突進したことは、板倉少尉は覚えていた。
板倉少尉が気が付いたとき、二、三人の士官に両腕を取られたまま、ランチに連れ込まれていた。しばらくは、何がなにやらさっぱり分からなかったが、正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした。