当時世界的にも著名で、輝かしい軍歴、栄光のエリート街道を飛ぶように経てきた、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と対決し、彼をフィリピンで打ちのめし、バターンに敗退させ、コレヒドールから遁走させるという屈辱のどん底に陥れたのが、日本帝国陸軍の本間雅晴陸軍中将である。
だが、それとは裏腹に、本間雅晴陸軍中将は、その人生と軍歴において、軍人としては異端で数奇、最後は悲劇的な運命をたどった。
「文人将軍」「腰抜け将軍」と呼ばれる、その異端の萌芽は子供の頃から顕著だった。
明治三十五年一月三十日、のちの本間雅晴が深い関心を持つことになる日英同盟が、ロンドンで調印された。
だが、本間雅晴は当時十四歳の中学生で、まんじゅうを頬張りながら小説を読みふけっていて、このニュースには関心がなかった。
中学に通う二里の道も、本間少年はいつも本を読みながら歩いた。二宮金次郎を真似たのではなく、読書が彼の唯一の楽しみだった。与謝野鉄幹・晶子や徳富蘆花を愛読した。
読書は味気ない現実から離れることのできる唯一の方法でもあった。当時、本間少年の文学趣味はますますつのり、読書から、とうとう小説を書くまでになった。
やがて佐渡の新聞の懸賞小説募集に匿名で応募した作品が当選して、紙上に連載された。「結婚」という題名で、失恋をテーマにしたストーリーだった。
明治三十七年二月八日、日露戦争が始まり、日本軍は十一月三十日旅順を占領した。この報を聞いた佐渡の中学生は、校庭に集まって万歳をし、ちょうちん行列を行った。
このとき彼らが行列しながら歌った「旅順占領の歌」は本間雅晴の作詞だった。中学卒業の四ヶ月前である。
本間とほぼ同時代に佐渡から北一輝(2.26事件理論的首謀者・処刑)が出ている。本間は北一輝の弟、北吉(早稲田大学卒・ハーバード大学・大東文化大学教授・大正大学教授・帝国美術学校校長・衆議院議員)とは学友として親しく付き合ったが、兄の北一輝を嫌っていた。
後年本間は「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた。北一輝が妻の神がかり状態の時の言葉を書きとめ、それに意味をつけて人を説くと聞いたときは、日頃の温厚な本間とは思えぬ怒り方をした。二・二六事件の後の話だった。
<本間雅晴陸軍中将プロフィル>
明治二十年十一月二十七日、新潟県佐渡郡畑野町(佐渡島・現佐渡市畑野)生まれ。父・本間賢吉(農業・大地主)、母・マツの長男。大地主の一人息子。
明治二十七年(七歳)四月畑野村の小学校に入学。
明治三十二年(十二歳)四月佐渡中学校入学。
明治三十八年(十八歳)三月佐渡中学卒業。十二月陸軍士官学校(一九期)入校。同期生は今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一、塚田攻など。
明治四十年(二十歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。卒業成績は首席が高野重治(柳下重治・陸大二六・独立混成第三旅団長・中将・勲一等旭日大綬章)で、本間雅晴は次席だった。同期の今村均は三十番位。十二月歩兵少尉、歩兵第一六連隊附。
明治四十三年(二十三歳)十一月歩兵中尉。
大正元年(二十五歳)十二月十三日陸軍大学校(二七期)入校。
大正二年(二十六歳)十一月二十一日鈴木壮六大佐(陸士一・陸大一二・大将・参謀総長・勲一等旭日桐花大綬章)の仲人で田村恰与造中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長)の末女・智子(十九歳)と結婚。
大正四年(二十八歳)十二月十一日陸軍大学校卒業(二七期)。卒業者五十六名中、首席は今村均中尉(陸士一九・大将)で、恩賜は三位の本間雅晴中尉(陸士一九次席・中将)、河辺正三中尉(陸士一九・大将)など五名だった。東條英機大尉(陸士一七・大将・陸軍大臣・首相)は十一位だった。
大正五年(二十九歳)八月参謀本部勤務。
大正六年(三十歳)八月歩兵大尉。参謀本部部員(支那課)。
大正七年(三十一歳)四月英国駐在。同時に英国に派遣された今村均大尉、河辺正三大尉とは親交があった。十一月から翌大正八年八月まで、第一次世界大戦でイギリス軍に従軍。
大正十年(三十四歳)六月陸軍大学校教官。十二月十六日智子夫人と協議離婚。
大正十一年(三十五歳)八月歩兵少佐。十一月インド駐剳(ちゅうさつ)武官。
大正十五年(三十九歳)八月歩兵中佐。十一月八日、王子製紙取締役・高田直屹の長女・富士子(二十三歳)と再婚。
昭和二年(四十歳)一月秩父宮御附武官。
昭和五年(四十三歳)六月三日英国大使館附武官。八月一日歩兵大佐。
昭和七年(四十五歳)八月八日陸軍省新聞班長。
昭和八年(四十六歳)八月一日歩兵第一連隊長。
昭和十年(四十八歳)八月一日陸軍少将。歩兵第三二旅団長。
昭和十一年(四十九歳)十二月一日ヨーロッパ出張。
昭和十二年(五十歳)七月二十一日参謀本部第二部長。
昭和十三年(五十一歳)七月十五日陸軍中将。第二七師団長。
昭和十五年(五十三歳)十二月二日台湾軍司令官。
昭和十六年(五十四歳)十一月六日第一四軍司令官。フィリピン攻略戦を指揮。
昭和十七年(五十五歳)八月参謀本部附を経て八月三十一日予備役編入。予備陸軍中将。フィリピン協会理事長。
昭和二十年(五十八歳)十二月十九日マニラ軍事法廷に召喚され、審理開始。
昭和二十一年二月十一日「バターン死の行進」の責任者として死刑判決。四月三日午前零時五十三分、マニラで銃殺刑。享年五十八歳。墓地は神奈川県川崎市、生田の春秋苑にある。
だが、それとは裏腹に、本間雅晴陸軍中将は、その人生と軍歴において、軍人としては異端で数奇、最後は悲劇的な運命をたどった。
「文人将軍」「腰抜け将軍」と呼ばれる、その異端の萌芽は子供の頃から顕著だった。
明治三十五年一月三十日、のちの本間雅晴が深い関心を持つことになる日英同盟が、ロンドンで調印された。
だが、本間雅晴は当時十四歳の中学生で、まんじゅうを頬張りながら小説を読みふけっていて、このニュースには関心がなかった。
中学に通う二里の道も、本間少年はいつも本を読みながら歩いた。二宮金次郎を真似たのではなく、読書が彼の唯一の楽しみだった。与謝野鉄幹・晶子や徳富蘆花を愛読した。
読書は味気ない現実から離れることのできる唯一の方法でもあった。当時、本間少年の文学趣味はますますつのり、読書から、とうとう小説を書くまでになった。
やがて佐渡の新聞の懸賞小説募集に匿名で応募した作品が当選して、紙上に連載された。「結婚」という題名で、失恋をテーマにしたストーリーだった。
明治三十七年二月八日、日露戦争が始まり、日本軍は十一月三十日旅順を占領した。この報を聞いた佐渡の中学生は、校庭に集まって万歳をし、ちょうちん行列を行った。
このとき彼らが行列しながら歌った「旅順占領の歌」は本間雅晴の作詞だった。中学卒業の四ヶ月前である。
本間とほぼ同時代に佐渡から北一輝(2.26事件理論的首謀者・処刑)が出ている。本間は北一輝の弟、北吉(早稲田大学卒・ハーバード大学・大東文化大学教授・大正大学教授・帝国美術学校校長・衆議院議員)とは学友として親しく付き合ったが、兄の北一輝を嫌っていた。
後年本間は「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた。北一輝が妻の神がかり状態の時の言葉を書きとめ、それに意味をつけて人を説くと聞いたときは、日頃の温厚な本間とは思えぬ怒り方をした。二・二六事件の後の話だった。
<本間雅晴陸軍中将プロフィル>
明治二十年十一月二十七日、新潟県佐渡郡畑野町(佐渡島・現佐渡市畑野)生まれ。父・本間賢吉(農業・大地主)、母・マツの長男。大地主の一人息子。
明治二十七年(七歳)四月畑野村の小学校に入学。
明治三十二年(十二歳)四月佐渡中学校入学。
明治三十八年(十八歳)三月佐渡中学卒業。十二月陸軍士官学校(一九期)入校。同期生は今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一、塚田攻など。
明治四十年(二十歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。卒業成績は首席が高野重治(柳下重治・陸大二六・独立混成第三旅団長・中将・勲一等旭日大綬章)で、本間雅晴は次席だった。同期の今村均は三十番位。十二月歩兵少尉、歩兵第一六連隊附。
明治四十三年(二十三歳)十一月歩兵中尉。
大正元年(二十五歳)十二月十三日陸軍大学校(二七期)入校。
大正二年(二十六歳)十一月二十一日鈴木壮六大佐(陸士一・陸大一二・大将・参謀総長・勲一等旭日桐花大綬章)の仲人で田村恰与造中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長)の末女・智子(十九歳)と結婚。
大正四年(二十八歳)十二月十一日陸軍大学校卒業(二七期)。卒業者五十六名中、首席は今村均中尉(陸士一九・大将)で、恩賜は三位の本間雅晴中尉(陸士一九次席・中将)、河辺正三中尉(陸士一九・大将)など五名だった。東條英機大尉(陸士一七・大将・陸軍大臣・首相)は十一位だった。
大正五年(二十九歳)八月参謀本部勤務。
大正六年(三十歳)八月歩兵大尉。参謀本部部員(支那課)。
大正七年(三十一歳)四月英国駐在。同時に英国に派遣された今村均大尉、河辺正三大尉とは親交があった。十一月から翌大正八年八月まで、第一次世界大戦でイギリス軍に従軍。
大正十年(三十四歳)六月陸軍大学校教官。十二月十六日智子夫人と協議離婚。
大正十一年(三十五歳)八月歩兵少佐。十一月インド駐剳(ちゅうさつ)武官。
大正十五年(三十九歳)八月歩兵中佐。十一月八日、王子製紙取締役・高田直屹の長女・富士子(二十三歳)と再婚。
昭和二年(四十歳)一月秩父宮御附武官。
昭和五年(四十三歳)六月三日英国大使館附武官。八月一日歩兵大佐。
昭和七年(四十五歳)八月八日陸軍省新聞班長。
昭和八年(四十六歳)八月一日歩兵第一連隊長。
昭和十年(四十八歳)八月一日陸軍少将。歩兵第三二旅団長。
昭和十一年(四十九歳)十二月一日ヨーロッパ出張。
昭和十二年(五十歳)七月二十一日参謀本部第二部長。
昭和十三年(五十一歳)七月十五日陸軍中将。第二七師団長。
昭和十五年(五十三歳)十二月二日台湾軍司令官。
昭和十六年(五十四歳)十一月六日第一四軍司令官。フィリピン攻略戦を指揮。
昭和十七年(五十五歳)八月参謀本部附を経て八月三十一日予備役編入。予備陸軍中将。フィリピン協会理事長。
昭和二十年(五十八歳)十二月十九日マニラ軍事法廷に召喚され、審理開始。
昭和二十一年二月十一日「バターン死の行進」の責任者として死刑判決。四月三日午前零時五十三分、マニラで銃殺刑。享年五十八歳。墓地は神奈川県川崎市、生田の春秋苑にある。