マッカーサー大将は、人種差別的発想から、日本軍を見下した。そしてルソン島に上陸した日本軍を過小評価していた。
日本陸軍の戦闘機により、味方の戦闘機が撃墜されると、マッカーサー大将は「戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ」と言ったという。
だが、その後、各地の防衛線を突破し、米軍を蹴散らし、電撃的に侵攻してくる日本軍に驚いたマッカーサー大将は、日本軍上陸の翌日には、マニラを放棄せざるを得なくなり、バターン半島へ敗退した。
一方、「1億人の昭和史・日本の戦史8・太平洋戦争2」(毎日新聞社)に「マッカーサー回想記・上」から抜粋したダグラス・マッカーサー(当時・アメリカ極東陸軍司令官)の本間雅晴中将の指揮する日本軍に対する作戦の証言、「知り尽くしていたバターン」では次の様に述べている。
「この一連の上陸で、本間将軍の戦略はたちどころにはっきりした。本間将軍がリンガエンに上陸した主力とアチモナン(ラモン湾)に上陸した別働隊で、われわれをはさみ打ちにするつもりであることは明白だった」
「この両部隊が急速に接近すると、私の主力部隊は、中部ルソンのしゃへい物の少ない平野で、敵に前後をはさまれて戦わなければならなくなる。日本軍の戦略はルソンの防衛を短期に完全に粉砕することを想定したものだった」
「……それはまことに非の打ちどころのない戦略構想だった。私の兵力はジョーンズ将軍指揮下の第二軍団と、ウェーンライト将軍指揮下の第一軍団とが二つに断ち切られ、両軍団が別々につぶされそうな情勢となってきたのである」
「私は即座に防衛計画を立てた。第一軍団は、北はリンガエン湾から南はバターン半島の付け根まで広い中部平野で、次々に新しい防衛線へ後退する持久戦術をとらせる」
「この持久行動の援護の下に、第二軍団は、マニラ部隊も全部バターン半島に撤退させる。バターンでは私が地形を知り尽くしているので、ここで日本軍の優勢な空軍力、戦車、大砲、兵力に対抗するという計画だった」。
「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、第四十八師団長・土橋勇逸(どばし・ゆういつ)中将(陸士二四・陸大三二・東京外語学校・中将・第三八軍司令官)の「土橋日記」の昭和十六年十二月二十七日の内容に、「敵は最後の抵抗をバターン半島に試みるであろう」と記されている。
マニラ市にあったアメリカ極東軍司令部は、十二月二十四日には、すでにコレヒドール島に移動していた。日本軍に押されてマッカーサー司令官以下、セーヤー高等弁務官、ケソン大統領とその家族、高級官吏等が、船でマニラ湾を横切ってコレヒドール島に立てこもった。
本間中将以下の第一四軍司令部がこの事実を知ったのは、十二月二十七日だったが、この時点で、第一四軍司令部は、マッカーサー大将がバターン半島で持久戦に持ち込む計画であることを見抜くべきであった。
現に土橋師団長は、その可能性を再三に渡って申し立てている。第一四軍は依然としてマニラ市周辺で、一大会戦が行われるものと信じ込み、バターン半島に重点を置かなかった。
その結果、バターン半島に米比軍の大半を逃がし、そのために後のバターン攻撃が一時頓挫し、犠牲者を多く出し、作戦上の不手際を重ねることになった。
マッカーサー大将が出した「マニラ非武装都市宣言」を、第一四軍は十二月二十七日夕、サンフランシスコ放送で聞いた。大本営もそれを聞き「注意せよ」と第一四軍に通報した。
この時点で本間中将の第一四軍はマニラからバターン半島に作戦の方向を転換すべきだったと言われているが、そう簡単に「非武装都市宣言」が信じられるはずもなかった。
第一四軍はフィリピン作戦については、慎重で、第四八師団の前進については、上陸直後からブレーキをかける役に回っている。
第一回は、リンガエン湾に上陸直後、アグノ河の線に一気に出るという第四八師団に対して、重火器の揚陸が終わるまで待て、と止めた。
これは戦術的には当然の処置で、重火器も持たない歩兵部隊が、米比軍の待ち受けている正面にぶつかるのは危険だとの判断に立っている。
しかし、マニラ市を目前にしてのブレーキは、ルソン島南部のラモン湾に上陸した第一六師団と同時にマニラ占領をさせようという、第一四軍の政治的配慮だった。
日本陸軍の戦闘機により、味方の戦闘機が撃墜されると、マッカーサー大将は「戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ」と言ったという。
だが、その後、各地の防衛線を突破し、米軍を蹴散らし、電撃的に侵攻してくる日本軍に驚いたマッカーサー大将は、日本軍上陸の翌日には、マニラを放棄せざるを得なくなり、バターン半島へ敗退した。
一方、「1億人の昭和史・日本の戦史8・太平洋戦争2」(毎日新聞社)に「マッカーサー回想記・上」から抜粋したダグラス・マッカーサー(当時・アメリカ極東陸軍司令官)の本間雅晴中将の指揮する日本軍に対する作戦の証言、「知り尽くしていたバターン」では次の様に述べている。
「この一連の上陸で、本間将軍の戦略はたちどころにはっきりした。本間将軍がリンガエンに上陸した主力とアチモナン(ラモン湾)に上陸した別働隊で、われわれをはさみ打ちにするつもりであることは明白だった」
「この両部隊が急速に接近すると、私の主力部隊は、中部ルソンのしゃへい物の少ない平野で、敵に前後をはさまれて戦わなければならなくなる。日本軍の戦略はルソンの防衛を短期に完全に粉砕することを想定したものだった」
「……それはまことに非の打ちどころのない戦略構想だった。私の兵力はジョーンズ将軍指揮下の第二軍団と、ウェーンライト将軍指揮下の第一軍団とが二つに断ち切られ、両軍団が別々につぶされそうな情勢となってきたのである」
「私は即座に防衛計画を立てた。第一軍団は、北はリンガエン湾から南はバターン半島の付け根まで広い中部平野で、次々に新しい防衛線へ後退する持久戦術をとらせる」
「この持久行動の援護の下に、第二軍団は、マニラ部隊も全部バターン半島に撤退させる。バターンでは私が地形を知り尽くしているので、ここで日本軍の優勢な空軍力、戦車、大砲、兵力に対抗するという計画だった」。
「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、第四十八師団長・土橋勇逸(どばし・ゆういつ)中将(陸士二四・陸大三二・東京外語学校・中将・第三八軍司令官)の「土橋日記」の昭和十六年十二月二十七日の内容に、「敵は最後の抵抗をバターン半島に試みるであろう」と記されている。
マニラ市にあったアメリカ極東軍司令部は、十二月二十四日には、すでにコレヒドール島に移動していた。日本軍に押されてマッカーサー司令官以下、セーヤー高等弁務官、ケソン大統領とその家族、高級官吏等が、船でマニラ湾を横切ってコレヒドール島に立てこもった。
本間中将以下の第一四軍司令部がこの事実を知ったのは、十二月二十七日だったが、この時点で、第一四軍司令部は、マッカーサー大将がバターン半島で持久戦に持ち込む計画であることを見抜くべきであった。
現に土橋師団長は、その可能性を再三に渡って申し立てている。第一四軍は依然としてマニラ市周辺で、一大会戦が行われるものと信じ込み、バターン半島に重点を置かなかった。
その結果、バターン半島に米比軍の大半を逃がし、そのために後のバターン攻撃が一時頓挫し、犠牲者を多く出し、作戦上の不手際を重ねることになった。
マッカーサー大将が出した「マニラ非武装都市宣言」を、第一四軍は十二月二十七日夕、サンフランシスコ放送で聞いた。大本営もそれを聞き「注意せよ」と第一四軍に通報した。
この時点で本間中将の第一四軍はマニラからバターン半島に作戦の方向を転換すべきだったと言われているが、そう簡単に「非武装都市宣言」が信じられるはずもなかった。
第一四軍はフィリピン作戦については、慎重で、第四八師団の前進については、上陸直後からブレーキをかける役に回っている。
第一回は、リンガエン湾に上陸直後、アグノ河の線に一気に出るという第四八師団に対して、重火器の揚陸が終わるまで待て、と止めた。
これは戦術的には当然の処置で、重火器も持たない歩兵部隊が、米比軍の待ち受けている正面にぶつかるのは危険だとの判断に立っている。
しかし、マニラ市を目前にしてのブレーキは、ルソン島南部のラモン湾に上陸した第一六師団と同時にマニラ占領をさせようという、第一四軍の政治的配慮だった。