陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

304.本間雅晴陸軍中将(4)田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない

2012年01月20日 | 本間雅晴陸軍中将
 陸士を卒業した本間は新潟県の新発田連隊に配属された。本間の次男、雅彦は、昭和四十年四月に新潟日報に連載した「偉大なる越しぬけ将軍・本間雅晴」の中で、「若い頃の雅晴には、父・賢吉ゆずりの軟派性があった」と書いている。

 キザといわれるほどの本間少尉のおしゃれは、父親ゆずりのものだった。

 明治四十三年十一月十日付で本間少尉は中尉に進級した。その頃、本間の本家の跡取り息子、本間朝之衛が、修学旅行で新発田連隊の見学に行った。

 隊内を案内してくれる本間中尉が、腰の吊り紐をわざと緩めて、反りの強い指揮刀を地にひきずって歩く姿を、修学旅行の少年たちは感に耐えて眺めていた。

 だが、本間中尉は中学の後輩たちを将校集会所に入れて大福もちをおごり、その温かいもてなしに、引率の教師は感動した。

 大正元年十二月十三日、本間雅晴中尉は陸軍大学校(二七期)に入校した。このときの受験者は約八百人、合格者は六十人だった。

 士官学校(十九期)同期の、本間中尉と今村均中尉は、陸軍大学校でも同期生になった。板垣征四郎中尉(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将)、山下奉文中尉(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第十四方面軍司令官)もこの年に受験しているが、二人とも不合格だった。

 陸大在学中に、当時二十五歳の本間中尉は「僕は結婚しようと思うのだが」と今村中尉に相談した。そのことが今村の回想録に記されている。

 本間の相手について今村は「当時政府の顕要の地位にあった人の細君の妹」とだけ記しているが、それは当時すでに故人であった田村恰与造(たむら・いよぞう)中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長・中将)の末娘、智子(としこ)だった。

 智子の姉たちは、当時、参謀本部総務部長・山梨半造少将(陸士旧八・陸大八恩賜・陸軍大臣・大将・朝鮮総督)や、福島安正(開成学校中退・司法省・陸軍省文官・士官登用試験合格・陸軍中尉・参謀本部次長・中将・男爵・関東都督・大将)の息子に嫁いでいるという陸軍の名家だった。

 今村中尉はこの縁談に反対した。今村中尉は本間中尉に「その人のことは、よく我々仲間の話に出るが、家庭をよく調べたか」と言った。

 本間中尉は「母親が芸者だったということだろう。母親がそういう境遇だからといって、その娘までを軽蔑するのはいけないことだ……」と、本間中尉は今村中尉のあげる疑問点の一つ一つに反論して決意の固いことを示した。

 そして本間中尉は「君には理解されんかも知れんが、僕は一度の見合いで恋をしてしまった」とも言った。

 だが、陸士同期の舞伝男(陸士一九・陸大三一・中将・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は次のように述べている。

 「士官学校に近い紺谷という洋服屋の二階を、我々は日曜合宿に使っていたが、そこの主人も本間が田村家の娘と見合いをしたと聞いて、あの人だけはおよしなさいと、とめていた。だが時すでに遅く、本間の決心はついていた」。

 紺谷洋服店の主人は「田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない」と、しきりに本間中尉を説得していたという。

 智子の母親が芸者だったという噂が陸大生の間に当時流れていたが、事実は違っていたようだ。だが、本間はこの噂を生涯信じていた。本間の結婚期間中、智子の感情を傷つけまいと一度も話題に出さなかったのではないかと推察される。

 智子は跡見女学校を卒業した十八歳の“御大家の令嬢”で、これという問題があったわけではないが、美貌、派手な身なり、軽い挙動など、良家の子女とは思われない色っぽさがあった。

 智子は姉たちと同じ学習院に入学したが、その教育内容に嫌気がさして跡見女学校に転校した。いったん「いやだ」となったら、矢もたてもたまらず行動に移す、わがままな性格だった。

 本間中尉と智子は大正二年十一月二十一日に結婚した。本間中尉と智子の新婚生活は限りなくロマンティックで、どこか遠い国の物語のようであった。智子が軍人の妻に相応しいかということは忘れ去られていた。

 だが、二人の結婚式に本間の母、マツが出席しなかったことが、智子が姑に悪感情を持つ発端だった。