日露戦争の戦死者は、日本軍が、陸軍約八五〇〇〇人、海軍約三〇〇〇人の合計八八〇〇〇人。戦争後三年以内に、戦傷、脚気等が原因で死亡したものが約三〇〇〇〇人で、これも含めると、日露戦争で死亡した人は、約一一八〇〇〇人になる。負傷者は約一五三五〇〇人。
これに対して、ロシア軍の戦死者は約二五〇〇〇人で、戦傷死や病死が約一七〇〇〇人で、日露戦争で死亡した人は、約四二〇〇〇人である。負傷者は約一四六〇〇〇人。
勝利したものの、多大な犠牲を出した日露戦争は、終わった。乃木希典陸軍大将と東郷平八郎海軍大将は、帰国し、ともに凱旋した。
「将軍乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)所収、「嗚呼乃木将軍」(池田信太郎)によると、沿道は数万の群集で埋められていた。
手に手に小旗を打ち振り、万歳の声は渦のようにひっきりなしに湧き上がっていた。宮中差し回しのオープンカーに乗った二人の将軍の凱旋を迎えて、人々は狂気のように叫んでいた。
静かに走る車上で、東郷大将は特長のある大きな瞳で前方を凝視し、身じろぎもしなかったが、隣の乃木将軍は、たえず挙手の礼で群集の歓呼に応えていた。
何回も何回もお辞儀するように頭を下げる乃木大将のその姿は、微動だにしない隣の東郷大将に比べ、哀れにも見える挙動だった。
一方は日本海海戦で赫々たる戦果をあげた将軍であり、一方は莫大な犠牲を払って勝利を得た将軍だった。同じ凱旋の帰国でも、互いの心中はまるで違っていた。
戦中戦後における乃木大将に対する国民の批判は手厳しいものだった。旅順攻撃に肉親を失った家族は、乃木大将に怨嗟の声を投げたのだった。
だが、乃木大将は、あまりに日本の武士でありすぎた。ようやく近代戦の様相を呈し始めた日露戦争に臨むにしては、古い型の軍人だった。幼少から葉隠れの精神を叩き込まれ、武士として育った乃木大将の性格は、近代戦に対処するには、律義でありすぎた。
十分な攻撃兵器弾薬が支給されずに、肉弾をもって不落の要塞に当たらなければならなかった乃木大将の苦境は、誰も理解してくれなかった。
天皇陛下に軍状を奏上すべく車上にある将軍は、ただこれが国民への最後の別離であり謝罪であるとこころに決め、何度も答礼を重ねながら、怒涛のような歓声の人垣を過ぎて行ったのである。
万歳万歳の嵐の中に、ふと、乃木大将の耳を突き刺すような言葉があった。その声は嵐のような雑音の中に、たちまち消えて行った。耳のせいだったかも知れない。周囲の誰もが聞き取ることのできなかった短い声だった。
だが、乃木大将の白手袋の手は、はたと止まった。白い髭が、かすかにふるえていた。「人殺し!」と確かに聞いた。女の声だった。若いのか年寄りなのか分らなかった。
乃木大将が帰国して、初めて直面した国民の憎悪の壁だった。ひれ伏して謝罪しても、どうしても許してくれそうもない黒い大きな壁が、目の前に立ちふさがっているように感じられた。走る車上に揺られながら、乃木大将の両眼はきつく閉じられていた。
宮中に参内したその日の将軍たちは、次々に陛下への奏上を終わり、最後に乃木大将が伺候した。この日乃木大将が明治天皇に奏上した復命書は、型破りと言ってよいほどの、長いものだった。
それには、自分の失敗や過失はもとより、兵器弾薬の附属から、作戦計画の拙劣まで、一切ありのままに書かれていた。乃木大将は、この復命を奏上しつつ、旅順攻撃において多数の忠勇の将卒を失った一段になると、顔面は蒼白になり、涙は滝のように流れ、声は震えて、途中幾度も途切れた。
ようやくのことで復命が終わると、乃木大将は、がっぱと明治天皇の御前に拝伏して、次のように奏上したと言われている。
「陛下! 微臣希典、五十四年が間、海嶽の寵恩を蒙りながら、今またこの大罪をおかしました。もはや、生きる力もございませぬ。何卒、微臣に死をお許し下さい。割腹して罪を謝し奉るよりほかに、途はございませぬ」。
乃木大将は、しばらくは顔も上げ得ず、嗚咽にむせんでいた。明治天皇は、ただ乃木大将の言葉をお聞きになられただけで、何の言葉も無かった。
これに対して、ロシア軍の戦死者は約二五〇〇〇人で、戦傷死や病死が約一七〇〇〇人で、日露戦争で死亡した人は、約四二〇〇〇人である。負傷者は約一四六〇〇〇人。
勝利したものの、多大な犠牲を出した日露戦争は、終わった。乃木希典陸軍大将と東郷平八郎海軍大将は、帰国し、ともに凱旋した。
「将軍乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)所収、「嗚呼乃木将軍」(池田信太郎)によると、沿道は数万の群集で埋められていた。
手に手に小旗を打ち振り、万歳の声は渦のようにひっきりなしに湧き上がっていた。宮中差し回しのオープンカーに乗った二人の将軍の凱旋を迎えて、人々は狂気のように叫んでいた。
静かに走る車上で、東郷大将は特長のある大きな瞳で前方を凝視し、身じろぎもしなかったが、隣の乃木将軍は、たえず挙手の礼で群集の歓呼に応えていた。
何回も何回もお辞儀するように頭を下げる乃木大将のその姿は、微動だにしない隣の東郷大将に比べ、哀れにも見える挙動だった。
一方は日本海海戦で赫々たる戦果をあげた将軍であり、一方は莫大な犠牲を払って勝利を得た将軍だった。同じ凱旋の帰国でも、互いの心中はまるで違っていた。
戦中戦後における乃木大将に対する国民の批判は手厳しいものだった。旅順攻撃に肉親を失った家族は、乃木大将に怨嗟の声を投げたのだった。
だが、乃木大将は、あまりに日本の武士でありすぎた。ようやく近代戦の様相を呈し始めた日露戦争に臨むにしては、古い型の軍人だった。幼少から葉隠れの精神を叩き込まれ、武士として育った乃木大将の性格は、近代戦に対処するには、律義でありすぎた。
十分な攻撃兵器弾薬が支給されずに、肉弾をもって不落の要塞に当たらなければならなかった乃木大将の苦境は、誰も理解してくれなかった。
天皇陛下に軍状を奏上すべく車上にある将軍は、ただこれが国民への最後の別離であり謝罪であるとこころに決め、何度も答礼を重ねながら、怒涛のような歓声の人垣を過ぎて行ったのである。
万歳万歳の嵐の中に、ふと、乃木大将の耳を突き刺すような言葉があった。その声は嵐のような雑音の中に、たちまち消えて行った。耳のせいだったかも知れない。周囲の誰もが聞き取ることのできなかった短い声だった。
だが、乃木大将の白手袋の手は、はたと止まった。白い髭が、かすかにふるえていた。「人殺し!」と確かに聞いた。女の声だった。若いのか年寄りなのか分らなかった。
乃木大将が帰国して、初めて直面した国民の憎悪の壁だった。ひれ伏して謝罪しても、どうしても許してくれそうもない黒い大きな壁が、目の前に立ちふさがっているように感じられた。走る車上に揺られながら、乃木大将の両眼はきつく閉じられていた。
宮中に参内したその日の将軍たちは、次々に陛下への奏上を終わり、最後に乃木大将が伺候した。この日乃木大将が明治天皇に奏上した復命書は、型破りと言ってよいほどの、長いものだった。
それには、自分の失敗や過失はもとより、兵器弾薬の附属から、作戦計画の拙劣まで、一切ありのままに書かれていた。乃木大将は、この復命を奏上しつつ、旅順攻撃において多数の忠勇の将卒を失った一段になると、顔面は蒼白になり、涙は滝のように流れ、声は震えて、途中幾度も途切れた。
ようやくのことで復命が終わると、乃木大将は、がっぱと明治天皇の御前に拝伏して、次のように奏上したと言われている。
「陛下! 微臣希典、五十四年が間、海嶽の寵恩を蒙りながら、今またこの大罪をおかしました。もはや、生きる力もございませぬ。何卒、微臣に死をお許し下さい。割腹して罪を謝し奉るよりほかに、途はございませぬ」。
乃木大将は、しばらくは顔も上げ得ず、嗚咽にむせんでいた。明治天皇は、ただ乃木大将の言葉をお聞きになられただけで、何の言葉も無かった。