次に、人事の一元化については、二・二六事件による革新思想を有する将校の横断的結束が発生したことにかんがみ、人事を一元化して粛軍の目的を達しようと企図した。
参謀将校、技術将校、各部将校の人事を挙げて陸軍省(人事局)に移した。従来、参謀将校については、「参謀総長は参謀の職にある陸軍将校を統督し」とあったのを「統括し」と改めている。
この参謀人事を陸軍省に移したことについて、当時の参謀本部庶務課高級部員・富永恭次(とみなが・きょうじ)中佐(長崎・陸士二五・陸大三五・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年死去・享年六十八歳・功三級)は、後に次の様に述べている。
「二・二六事件の直後、寺内大臣の次官として梅津中将は寺内に人事一元化の奏請をさせたが、当時参謀本部に相談することなく独断でやった」
「この時、私は庶務課長代理であったが、梅津次官と渡り合い、中佐が中将を相手に随分不遜な言動をした」。
梅津中将としては、各方面に相談していては、まとまらないかもしれないと考えて、陸軍省首脳のみで取りまとめて決定したものと思われる。
富永中佐は、二・二六事件の興奮もあったものか、方々に怒鳴り込んでいたので、補任課長・加藤守雄(かとう・もりお)大佐(東京・陸士二四・陸大三二・ドイツ駐在・陸軍省人事局補任課高級課員・歩兵大佐・人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台幼年学校長・昭和十四年死去・享年四十九歳)は、次の様に言って、富永中佐に懇願した。
「君が今そんなに騒ぎ出しては、経理局や医務局がワンワン騒ぎ出して大変な混乱に陥る。陸軍省が参謀本部に一言の挨拶もなく人事の一元化を断行してしまったことは申し訳ないが、すでに内奏裁可済みのことである。なんとか穏便にすましてくれ」。
そこで、加藤大佐と富永中佐とで、妥協案を作った。それは、既に内奏済みなので、表面的には陸軍省案に従い、実質的には参謀本部案を生かすため、次の様な意味の協定覚書を作製して署名した。
一、参謀人事については、従来通り参謀本部で起案する。
二、陸大新卒者の配当も従来通り参謀本部で起案する。
三、この協定は秘密にする。
第二項の陸大卒業者の配属をめぐる問題は、これまで度々陸軍省と参謀本部の間で権限争いがあり、陸軍省の主張は補任課がやるのが適当だというのに対して、参謀本部は、陸大卒業者の考科表は参謀本部が持っており。陸軍省側は持っていないから参謀本部(庶務課)がやるのが当然であるとして、陸軍省の主張に反対していた。
この秘密協定は、陸軍省の各局にも波紋を起こさずに済んだが、これは各局が秘密協定を知らなかったためであり、この協定は終戦まで続いた。
梅津次官は参謀本部総務部長として、参謀人事を主管した経験もあり、参謀本部庶務課と陸軍省の補任課で権限争いがしばしば起こっていたことも十分承知していたが、粛軍人事という大局的見地より、このような人事の一元化に踏み切ったと言われている。
その後、太平洋戦争となり、梅津大将が参謀総長となり、麹町の官邸に省部の首脳を招待した席上で、当時、陸軍次官であった富永恭次中将は、梅津大将に次のようなことを言った。
「かつて閣下は、陸軍次官として参謀人事を陸軍省に取り上げ、私は庶務課長代理として、これに猛烈に反対したが、今日、閣下は参謀総長として、どんなお考えでしょうか」。
座談的な雰囲気での言い回しであったが、富永中将は、参謀総長である梅津大将に対して、相当な皮肉の質問をした。
これに対して、梅津大将は、ぽつりと、「やっぱり立場立場でね」と答えただけだった。
昭和十一年九月十九日、陸軍省は明年度の陸軍予算概算を大蔵省に送るとともに、軍備充実中陸軍省関係事項について陸軍大臣より上奏した。
ところが、この軍備充実予算をめぐって、また省部間に紛糾が生じた。
参謀将校、技術将校、各部将校の人事を挙げて陸軍省(人事局)に移した。従来、参謀将校については、「参謀総長は参謀の職にある陸軍将校を統督し」とあったのを「統括し」と改めている。
この参謀人事を陸軍省に移したことについて、当時の参謀本部庶務課高級部員・富永恭次(とみなが・きょうじ)中佐(長崎・陸士二五・陸大三五・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年死去・享年六十八歳・功三級)は、後に次の様に述べている。
「二・二六事件の直後、寺内大臣の次官として梅津中将は寺内に人事一元化の奏請をさせたが、当時参謀本部に相談することなく独断でやった」
「この時、私は庶務課長代理であったが、梅津次官と渡り合い、中佐が中将を相手に随分不遜な言動をした」。
梅津中将としては、各方面に相談していては、まとまらないかもしれないと考えて、陸軍省首脳のみで取りまとめて決定したものと思われる。
富永中佐は、二・二六事件の興奮もあったものか、方々に怒鳴り込んでいたので、補任課長・加藤守雄(かとう・もりお)大佐(東京・陸士二四・陸大三二・ドイツ駐在・陸軍省人事局補任課高級課員・歩兵大佐・人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台幼年学校長・昭和十四年死去・享年四十九歳)は、次の様に言って、富永中佐に懇願した。
「君が今そんなに騒ぎ出しては、経理局や医務局がワンワン騒ぎ出して大変な混乱に陥る。陸軍省が参謀本部に一言の挨拶もなく人事の一元化を断行してしまったことは申し訳ないが、すでに内奏裁可済みのことである。なんとか穏便にすましてくれ」。
そこで、加藤大佐と富永中佐とで、妥協案を作った。それは、既に内奏済みなので、表面的には陸軍省案に従い、実質的には参謀本部案を生かすため、次の様な意味の協定覚書を作製して署名した。
一、参謀人事については、従来通り参謀本部で起案する。
二、陸大新卒者の配当も従来通り参謀本部で起案する。
三、この協定は秘密にする。
第二項の陸大卒業者の配属をめぐる問題は、これまで度々陸軍省と参謀本部の間で権限争いがあり、陸軍省の主張は補任課がやるのが適当だというのに対して、参謀本部は、陸大卒業者の考科表は参謀本部が持っており。陸軍省側は持っていないから参謀本部(庶務課)がやるのが当然であるとして、陸軍省の主張に反対していた。
この秘密協定は、陸軍省の各局にも波紋を起こさずに済んだが、これは各局が秘密協定を知らなかったためであり、この協定は終戦まで続いた。
梅津次官は参謀本部総務部長として、参謀人事を主管した経験もあり、参謀本部庶務課と陸軍省の補任課で権限争いがしばしば起こっていたことも十分承知していたが、粛軍人事という大局的見地より、このような人事の一元化に踏み切ったと言われている。
その後、太平洋戦争となり、梅津大将が参謀総長となり、麹町の官邸に省部の首脳を招待した席上で、当時、陸軍次官であった富永恭次中将は、梅津大将に次のようなことを言った。
「かつて閣下は、陸軍次官として参謀人事を陸軍省に取り上げ、私は庶務課長代理として、これに猛烈に反対したが、今日、閣下は参謀総長として、どんなお考えでしょうか」。
座談的な雰囲気での言い回しであったが、富永中将は、参謀総長である梅津大将に対して、相当な皮肉の質問をした。
これに対して、梅津大将は、ぽつりと、「やっぱり立場立場でね」と答えただけだった。
昭和十一年九月十九日、陸軍省は明年度の陸軍予算概算を大蔵省に送るとともに、軍備充実中陸軍省関係事項について陸軍大臣より上奏した。
ところが、この軍備充実予算をめぐって、また省部間に紛糾が生じた。