明治二十二年四月十二日、欧米先進国海軍視察から帰国してから半年後に、山本権兵衛少佐は中佐に進級し、まだ儀装中の国産初の新鋭巡洋艦「高雄」艦長心得に任命された。
その後、同年八月二十六日、山本権兵衛中佐は大佐に進級し、巡洋艦「高雄」艦長となった。まだ、三十六歳だった。
明治十九年十月、フランスで竣工した防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航途中、同年十二月三日、シンガポールを出港後、消息不明となった。真相は永遠の謎となった。
このことから、艦長・山本権兵衛大佐は、荒天航行特別試験を申請し、多数の造船士官を「高雄」に乗せて、延々四十日に渡る航海を実施した。
相変わらず、思い切ったことを実行する人で、若い頃は「喧嘩権兵衛」と言われていた、山本大佐だが、意外なことに、士官が下士官兵を殴ることは認めなかった。
明治二十三年一月、韓国の首都、京城で「撤桟事件」が発生した。京城の韓国商人らが、日本、清国、その他諸外国の商人全員の京城撤去を要求したのだ。
韓国では、王族の一人が死去すると、その葬儀料の一切を京城の商人に負担させる慣例があった。
たまたま、大王大妃(皇太后)が重態で、もし死去すれば、京城の韓国商人らは重税を課されることになる。
ところが、この税は、韓国商人だけに課され、日本や清国、その他諸外国の居留商人には課されないことになっていた。
憤慨した韓国商人たちは、結集して諸外国商人らの京城撤去を要求し、一月二十九日から、米店以外の全ての店がストライキに入った。
この「撤桟事件」の実情調査と、在京城の日本公使、領事、在留邦人の保護対策の研究を、西郷従道海軍大臣から命じられたのは、新鋭巡洋艦「高雄」艦長の山本権兵衛大佐だった。
明治二十三年二月二十三日、山本大佐は、巡洋艦「高雄」を率いて、横須賀港を出港、韓国の仁川に向かった。
三月三日、山本権兵衛大佐は、京城の日本公使館で、近藤真鋤(こんどう・ますき)公使(滋賀・蘭学修習・医師・外務省入省・外務権大録・ロンドン勤務・外務権少書記官・初代釜山浦領事・京城在勤書記官・仁川領事・権大書記官・外務省記録局長・朝鮮臨時代理公使・正五位・勲三等)から事件の経緯を聞いた。それは次のようなものであった。
「京城の韓国商人らが、課税の不平等に怒り、この挙に及んだことは事実だが、韓国政府顧問のアメリカ人、デニーが、清国代表の権謀的な袁世凱と、袁世凱と結ぶ大院君李是応の横暴を憎み、苦しめようとして、韓国商人らの撤桟運動を応援したことも、その一因になっている」
「日本、清国、その他諸外国商人の京城居留通商は、各国が韓国政府と締結した条約に基づいて行われている。もし諸外国商人を京城から撤去させようとするならば、その条約を変更しなければならない」
「それも、最初にこの条約を締結した外国は清国だから、韓国政府は清国政府と交渉して、条約の変更を承認させる必要がある」
「ただ、諸外国が仮に自国商人の京城撤去を承認しても、商人らは立退き料を請求するに違いないし、また、韓国側はそれを支払う義務がある。しかし、韓国側はそれだけの費用を負担することは不可能のはずである」
「また、デニーは、三月に満期解雇となり、アメリカに帰るという。そうなれば、撤桟問題も立ち消えになるのではないか」。
以上の報告を受けた、山本権兵衛大佐は、三月六日、日本公使館通訳・鄭永邦を従えて、清国公使館に行き、袁世凱に面会を申し込んだ。
袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した。だが、山本大佐は「先年の旧交を温めたく、また後日を期し難い」と、重ねて面会を申し入れた。
その後、同年八月二十六日、山本権兵衛中佐は大佐に進級し、巡洋艦「高雄」艦長となった。まだ、三十六歳だった。
明治十九年十月、フランスで竣工した防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航途中、同年十二月三日、シンガポールを出港後、消息不明となった。真相は永遠の謎となった。
このことから、艦長・山本権兵衛大佐は、荒天航行特別試験を申請し、多数の造船士官を「高雄」に乗せて、延々四十日に渡る航海を実施した。
相変わらず、思い切ったことを実行する人で、若い頃は「喧嘩権兵衛」と言われていた、山本大佐だが、意外なことに、士官が下士官兵を殴ることは認めなかった。
明治二十三年一月、韓国の首都、京城で「撤桟事件」が発生した。京城の韓国商人らが、日本、清国、その他諸外国の商人全員の京城撤去を要求したのだ。
韓国では、王族の一人が死去すると、その葬儀料の一切を京城の商人に負担させる慣例があった。
たまたま、大王大妃(皇太后)が重態で、もし死去すれば、京城の韓国商人らは重税を課されることになる。
ところが、この税は、韓国商人だけに課され、日本や清国、その他諸外国の居留商人には課されないことになっていた。
憤慨した韓国商人たちは、結集して諸外国商人らの京城撤去を要求し、一月二十九日から、米店以外の全ての店がストライキに入った。
この「撤桟事件」の実情調査と、在京城の日本公使、領事、在留邦人の保護対策の研究を、西郷従道海軍大臣から命じられたのは、新鋭巡洋艦「高雄」艦長の山本権兵衛大佐だった。
明治二十三年二月二十三日、山本大佐は、巡洋艦「高雄」を率いて、横須賀港を出港、韓国の仁川に向かった。
三月三日、山本権兵衛大佐は、京城の日本公使館で、近藤真鋤(こんどう・ますき)公使(滋賀・蘭学修習・医師・外務省入省・外務権大録・ロンドン勤務・外務権少書記官・初代釜山浦領事・京城在勤書記官・仁川領事・権大書記官・外務省記録局長・朝鮮臨時代理公使・正五位・勲三等)から事件の経緯を聞いた。それは次のようなものであった。
「京城の韓国商人らが、課税の不平等に怒り、この挙に及んだことは事実だが、韓国政府顧問のアメリカ人、デニーが、清国代表の権謀的な袁世凱と、袁世凱と結ぶ大院君李是応の横暴を憎み、苦しめようとして、韓国商人らの撤桟運動を応援したことも、その一因になっている」
「日本、清国、その他諸外国商人の京城居留通商は、各国が韓国政府と締結した条約に基づいて行われている。もし諸外国商人を京城から撤去させようとするならば、その条約を変更しなければならない」
「それも、最初にこの条約を締結した外国は清国だから、韓国政府は清国政府と交渉して、条約の変更を承認させる必要がある」
「ただ、諸外国が仮に自国商人の京城撤去を承認しても、商人らは立退き料を請求するに違いないし、また、韓国側はそれを支払う義務がある。しかし、韓国側はそれだけの費用を負担することは不可能のはずである」
「また、デニーは、三月に満期解雇となり、アメリカに帰るという。そうなれば、撤桟問題も立ち消えになるのではないか」。
以上の報告を受けた、山本権兵衛大佐は、三月六日、日本公使館通訳・鄭永邦を従えて、清国公使館に行き、袁世凱に面会を申し込んだ。
袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した。だが、山本大佐は「先年の旧交を温めたく、また後日を期し難い」と、重ねて面会を申し入れた。