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生きていれば

2007-11-01 | 家族
今日11/1は亡き母の誕生日
生きていれば97歳です。

明治43年戌年、静岡市鷹匠町で生を受け

一昨年の9/8天寿を全うして旅立ちました。

42歳で未亡人になり、私たち兄弟6人を
女手ひとつで育てました。

当時私は3歳でしたからまったくわかりませんが
姉の話では、父の葬儀の時も、それはしっかりと振る舞い
「さあ、明日からこの子達を食べさせなくちゃいけないんだから
泣いてなんかいられないよ」と言って周囲を驚かせたとか

幸い、商売をやっていたのと、働き者の祖母のおかげで
なんとかその場は乗り切り、当時高校3年生だった長兄が
自分の意思など関係なく跡取りとして三代目を継ぐことに
なってしまったそうです。

負けず嫌いで、向う気が強い人でしたから、私たちのことも
なにより<片親で育ったから・・・>と周りから言われるのが
嫌だったようです。

姉は私から見たらもう大人でしたから、母との確執はわかりませんでしたが
やはり、長女ならではの思いはいまだにあるようです。

なにしろ、はっきりと「私は女の子は嫌い」と信じられないことを
口にする人でした。

確かに、私も娘をもってみてわかったのですが、娘というのは母親の
一挙手、一投足をあげつらい、非難するものです。

それに比べて我が兄弟間でも、兄たちが
母の悪口を言うのを聞いたことがありません。

男の子にとって、かくも母親の存在とは女の子のそれとは違うものなのでしょう

母が兄たちのほうが可愛いというのも今となってはわかるような気がしますが
当時の私にはショックでした

そんな感じでしたから母とはよく戦いました。
私も末っ子のわがままでまったく言うことを聞かないし
母もまた、自分の考えを一方的に主張するので
合うわけがありません

しかしそれも、私がようやく精神的に大人になった頃には
沈静し、母を思う気持ちが前にでてきたように思います。

帰省したときも、なるべく穏便にを心がけ、帰るときには
<元気な顔を見るのはこれが最後かもしれない>との思いで
毎回胸が痛くなりました。

そんな関係が数年続いて、一昨年、肺炎から呼吸不全を起こし
一度は元気を取り戻したのですが、半年後、静かに旅立ちました

なにしろ兄夫婦、特に義姉の母に対する面倒見のよさは半端ではなく
本当に幸せな人でした。

私は幼く、母の女としての本当の気持ちが聞けないまま別れてしまいましたが
自分がもっと成長していれば、母の本音を聞いてやることが
出来たのではないかと、それだけが心残りです。

愛情の濃い人でした。思ったことを素直に表現できない人でした。
やっぱり、私は母の子です



コメント (4)
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