静岡の実家に行っておりました。
大震災の直前、姪からメールが届きました。
<お父さんから、4月末で店を閉めるから、パソコンで挨拶状を作ってほしいと頼まれました>と
とうとうきたか
わかってはいたし、覚悟はできていたはずでしたが心臓が高鳴るのがわかりました。
実家は静岡市のほぼ中心地にあり、私が子供の頃はそれは賑やかな商店街でした。
JRの静岡駅から徒歩15分くらいかかることもあり、市の中心が駅周辺になったこともあって
懐かしい店が次々と撤退していきました。
その上拍車をかけたのが、あのバブル、ご多分にもれず地上げ屋が氾濫し、街はところどころ
歯抜け状態に
当然実家にも何度か話があったようです。
ここでは初めて公表しますが、実家は『豆腐製造販売業』です。
はっきりした創業年は聞いてないのですが、初代は私の祖父で、
明治時代、丁稚奉公していた豆腐屋からのれん分けをして開業
祖父は昭和6年に50歳で他界してますから、私たち6人兄弟は誰もあったことはありませんが
働きものの祖母と、全く商売に向いてなかった長男である私の父が、嫁いだばかりの母と
その味を継承しました。
母はその後、姉から私まで6人の子供を産み育て、42歳で夫を(私の父)亡くしましたが
翌年の長兄の高校卒業を待って、祖母、姉の助けもあり商売はなんとか継続されました。
あの時代、商売がなかったら父親を亡くして6人の子供は育てられなかったと、後に母がよく話していました。
姉が嫁ぎ、しばらくして長兄が結婚、その兄嫁が、私がここで何度も書いている
<もしいなくなったら親より悲しい>と本気で思っているその人です。
当時私は小学生、その辺りから母の味は義姉の味に変わって行きました。
父を知らない私の身近にいた大人の男性は長兄でした。
正直、怖い存在でした。
大人になるにつれ、兄の本当の姿、やさしさだったり、おだてに乗りやすかったり、がわかってきたのですが
母が生前「この人は他人のご飯を食べたことが無いから我がままで困る」と、よくぼやいていましたが
兄にしてみれば、突然の父の死で自分の進路を必然的に1本に絞られてしまったわけですから
不本意この上なかったことでしょう
その兄も今年の秋で77歳、喜寿を迎えます。
ご存知のように豆腐屋というのは朝は早く、力仕事もあり、水も使う、若者でもきつい仕事です。
私がブログを始めた年の10月、義姉の古稀祝いを行ったのですが、その際兄から
「あと2年だなあ」
突然の廃業宣言でした。
娘二人は他家に嫁ぎ、それぞれの仕事を持ち、後継ぎは無理とわかってはいましたが
その話題にはベールをかけてきましたから一気に現実に戻されて、いよいよ覚悟しなければと思ったものです。
それから3年半、とうとうその日が近づいてきました。
もういてもたってもいられません。
家の娘たちも生まれて病院から最初に戻ったのはこの家でしたし、幼いころから何度も何度も
親の里帰りと共に親しんだ家であり店ですから、感覚でいうと実家も同然
たまたま次女がGW前に連休がとれたからと、車を出してくれました。
実家に着くと義姉が、私たち兄弟に最後の油揚げを食べさせたいと、配送の準備をしていたそうで
私の住所と名前を書いた送り状を見せてくれました。
ほんとうにカウントダウンが始まったこと、実感しました。
まだ中の方が温かい豆腐、揚げたてでフーフーしながらお醤油をちょっとだけたらしていただく薄揚げ
翌朝、仕事場にお皿を持って、兄からはお豆腐を、義姉からは、揚げ上がるのを待って1枚のせてもらいました。
家を出る前は、最後のお豆腐、きっと泣いちゃうんだろな、どうしよう、なんて思ってましたが
ジ~ンとはきましたがさすがにそこまでは大げさでした
それでも、このお豆腐が私を育ててくれたのだと思うと”感謝”の2文字しか出てきません。
前述通り長兄はこの秋77歳、ちょうど60年働いたことになります。
昔ほど朝は早くないといっても、5時から仕事が始まり、7時くらいに食事、その後すぐ昼まで
立ちっぱなしの重労働、
午後は、配達や書類の作成、翌日の準備などで、1日10時間以上の労働時間になります。
喜寿を迎える体はすでにあちこち、当然悲鳴を上げています。
昼前、午前中の仕事が終わってソファに横になった兄を見て、
<ああ、もうこれ以上無理はさせられない、豆腐が食べられなくなるなんてセンチなこと言ってる場合じゃない>
と、痛感しました。
「結婚した時、お豆腐くださいって言うのが恥ずかしかったんだ、ねえこれからはお豆腐買うんでしょ」と私
「ねえ、どうしよう、よそのお豆腐は食べられないかもね」と義姉
当たり前です、22歳でこの家に嫁いで51年、私の2.5倍もこの家にいるのですから
知らない人は兄が婿養子さん?って思ってます。
それくらい彼女のこの家に対する貢献度は半端ではありません。
もういいよね。
ほんとに残念だけどしかたないことです。
あなたの管理がよかったおかげで、祖父は50歳で、父は46歳で他界してしまったのに
兄は77歳になっても元気です。
これからはどうか自分達のために時間もお金も使ってください。
家の夫が、退職?記念にお二人を食事に招待したいと言ってます。
静岡でと思ってたら、姪がせっかくだから横浜に行けば、と言ってくれたので
こちらで実現しそうです。
喜んでもらえるよう今からいいところを探しましょう。
楽しみです
また女同士で旅行しましょう、今度は平日に行けますね。
寂しいけど、先の楽しみをいっぱい作って前を向かなければね
ほんとうにお疲れさまでした。
油揚げ、がんも、厚揚げ、そして、うちの夫に食べてもらいたいと持たせてくれた
ほんとにほんとの”最後のお豆腐”いっぱい、いっぱいありがとう
2011年4月30日 3代100年以上続いた【吉津屋豆腐店】はその歴史に幕を閉じます。
大震災の直前、姪からメールが届きました。
<お父さんから、4月末で店を閉めるから、パソコンで挨拶状を作ってほしいと頼まれました>と
とうとうきたか
わかってはいたし、覚悟はできていたはずでしたが心臓が高鳴るのがわかりました。
実家は静岡市のほぼ中心地にあり、私が子供の頃はそれは賑やかな商店街でした。
JRの静岡駅から徒歩15分くらいかかることもあり、市の中心が駅周辺になったこともあって
懐かしい店が次々と撤退していきました。
その上拍車をかけたのが、あのバブル、ご多分にもれず地上げ屋が氾濫し、街はところどころ
歯抜け状態に
当然実家にも何度か話があったようです。
ここでは初めて公表しますが、実家は『豆腐製造販売業』です。
はっきりした創業年は聞いてないのですが、初代は私の祖父で、
明治時代、丁稚奉公していた豆腐屋からのれん分けをして開業
祖父は昭和6年に50歳で他界してますから、私たち6人兄弟は誰もあったことはありませんが
働きものの祖母と、全く商売に向いてなかった長男である私の父が、嫁いだばかりの母と
その味を継承しました。
母はその後、姉から私まで6人の子供を産み育て、42歳で夫を(私の父)亡くしましたが
翌年の長兄の高校卒業を待って、祖母、姉の助けもあり商売はなんとか継続されました。
あの時代、商売がなかったら父親を亡くして6人の子供は育てられなかったと、後に母がよく話していました。
姉が嫁ぎ、しばらくして長兄が結婚、その兄嫁が、私がここで何度も書いている
<もしいなくなったら親より悲しい>と本気で思っているその人です。
当時私は小学生、その辺りから母の味は義姉の味に変わって行きました。
父を知らない私の身近にいた大人の男性は長兄でした。
正直、怖い存在でした。
大人になるにつれ、兄の本当の姿、やさしさだったり、おだてに乗りやすかったり、がわかってきたのですが
母が生前「この人は他人のご飯を食べたことが無いから我がままで困る」と、よくぼやいていましたが
兄にしてみれば、突然の父の死で自分の進路を必然的に1本に絞られてしまったわけですから
不本意この上なかったことでしょう
その兄も今年の秋で77歳、喜寿を迎えます。
ご存知のように豆腐屋というのは朝は早く、力仕事もあり、水も使う、若者でもきつい仕事です。
私がブログを始めた年の10月、義姉の古稀祝いを行ったのですが、その際兄から
「あと2年だなあ」
突然の廃業宣言でした。
娘二人は他家に嫁ぎ、それぞれの仕事を持ち、後継ぎは無理とわかってはいましたが
その話題にはベールをかけてきましたから一気に現実に戻されて、いよいよ覚悟しなければと思ったものです。
それから3年半、とうとうその日が近づいてきました。
もういてもたってもいられません。
家の娘たちも生まれて病院から最初に戻ったのはこの家でしたし、幼いころから何度も何度も
親の里帰りと共に親しんだ家であり店ですから、感覚でいうと実家も同然
たまたま次女がGW前に連休がとれたからと、車を出してくれました。
実家に着くと義姉が、私たち兄弟に最後の油揚げを食べさせたいと、配送の準備をしていたそうで
私の住所と名前を書いた送り状を見せてくれました。
ほんとうにカウントダウンが始まったこと、実感しました。
まだ中の方が温かい豆腐、揚げたてでフーフーしながらお醤油をちょっとだけたらしていただく薄揚げ
翌朝、仕事場にお皿を持って、兄からはお豆腐を、義姉からは、揚げ上がるのを待って1枚のせてもらいました。
家を出る前は、最後のお豆腐、きっと泣いちゃうんだろな、どうしよう、なんて思ってましたが
ジ~ンとはきましたがさすがにそこまでは大げさでした
それでも、このお豆腐が私を育ててくれたのだと思うと”感謝”の2文字しか出てきません。
前述通り長兄はこの秋77歳、ちょうど60年働いたことになります。
昔ほど朝は早くないといっても、5時から仕事が始まり、7時くらいに食事、その後すぐ昼まで
立ちっぱなしの重労働、
午後は、配達や書類の作成、翌日の準備などで、1日10時間以上の労働時間になります。
喜寿を迎える体はすでにあちこち、当然悲鳴を上げています。
昼前、午前中の仕事が終わってソファに横になった兄を見て、
<ああ、もうこれ以上無理はさせられない、豆腐が食べられなくなるなんてセンチなこと言ってる場合じゃない>
と、痛感しました。
「結婚した時、お豆腐くださいって言うのが恥ずかしかったんだ、ねえこれからはお豆腐買うんでしょ」と私
「ねえ、どうしよう、よそのお豆腐は食べられないかもね」と義姉
当たり前です、22歳でこの家に嫁いで51年、私の2.5倍もこの家にいるのですから
知らない人は兄が婿養子さん?って思ってます。
それくらい彼女のこの家に対する貢献度は半端ではありません。
もういいよね。
ほんとに残念だけどしかたないことです。
あなたの管理がよかったおかげで、祖父は50歳で、父は46歳で他界してしまったのに
兄は77歳になっても元気です。
これからはどうか自分達のために時間もお金も使ってください。
家の夫が、退職?記念にお二人を食事に招待したいと言ってます。
静岡でと思ってたら、姪がせっかくだから横浜に行けば、と言ってくれたので
こちらで実現しそうです。
喜んでもらえるよう今からいいところを探しましょう。
楽しみです
また女同士で旅行しましょう、今度は平日に行けますね。
寂しいけど、先の楽しみをいっぱい作って前を向かなければね
ほんとうにお疲れさまでした。
油揚げ、がんも、厚揚げ、そして、うちの夫に食べてもらいたいと持たせてくれた
ほんとにほんとの”最後のお豆腐”いっぱい、いっぱいありがとう
2011年4月30日 3代100年以上続いた【吉津屋豆腐店】はその歴史に幕を閉じます。