皆さまから温かいコメントをたくさんいただきました。
感謝でいっぱいです。
ありがとうございました。
一昨日の通夜、昨日の葬儀と、滞りなく無事終わりました。
兄の自宅を訪れたのは何十年ぶりでしょう。
ずっと昔、姪たちが幼いころ建てたばかりの家に行って以来
その後、子供たちは独立し、家庭を持ち、それぞれが親になり
そんな長い年月ご無沙汰してしまいました。
兄が最初に脳梗塞で倒れたのは平成14年と言ってましたから、ちょうど10年前
その日、偶然にも、前日高校の同級会で実家に泊まっていた私は、慌てて病院に駆け付けたことを
覚えています。
その時は、それほど重篤な感じではなかったので、安心して、
その後、1度見舞いに行きましたが、まったくおかしな様子もなく
後遺症の話もしっかり自分でできてましたし、
これからも病気と付き合っていかなければならないものの、それほど心配することもないだろうと
胸のつかえがとれたような安堵感で病室を出たことを思い出します。
しかし、それからしばらくして、さまざまな症状が出始め
約1年後、大阪に入院していた私を見舞いに姉や義姉達と来てくれた時には
あら?っという感じに
心配はしていたのですがその後どんどん病状は悪化していきました。
10年の闘病生活は本人はもとより、家族にも大きな負担は当然のこと
義姉も自分一人ではとても支えきれないと、長男家族と住むために2世帯住宅に建て替えて
共に支えてきたのですが・・・
4年ほど前から口からいっさい食べられなくなり、胃ろうに移行し、去年の夏前からは点滴のみで
生かされているという感じでした。
兄は日当たりのいい居間に寝かされていました。
会ったらなんて言おうといろいろ考えてましたが
「ごめんね」の一言で涙になり何も言えませんでした![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
義姉にもご無沙汰のお詫びをして、兄の横顔を見ると、こんなにも、と思うほど亡き母にそっくり
生前はこんなに似ているとは思わなかったのですが
好奇心旺盛なところまでそっくりだったね
「誰が最初に来るかと思ったらあなただったの」って母が向こうで言ってるようで
お互い趣味の話で盛り上がるかもしれません。
なにより救われたのは、義姉が「お父さんの分までこれからは楽しむから」と前向きでいてくれたことです。
冷たいと感じる人もいるかもしれないけど、永年、寝たきりで、なんの反応がなくても
週2回は会いに行っていたと言う義姉、
友人たちからの旅行の誘いも、息子に勧められても行く気にならなかったという義姉を
だれが責められるでしょう。
兄も辛かったけど、元気になんでもできる義姉だっていろんなことを我慢してきたのです。
去年の母の法事の時、胃ろうから点滴になって、もう長くはないかもしれないけど
せめて70歳は迎えさせてやりたいと気丈に話していた義姉でした。
兄の誕生日は12月、義姉の願いどおりなんとか70歳を迎えることができました。
私がいる間に、義姉のお友達が弔問にいらっしゃいました。
<私なんかより、この方の方がずっと義姉の苦しみも辛さもわかっているんだろうな>
遠くの親戚より近くの他人とは、よく言ったものです。
義姉には気の合うお友達が大勢いるみたいなので安心しました。
家族も大事だけど、こうなってみると友人の存在はとても大事です。
葬儀も終わって別れ際、
「これから疲れが出てくるからゆっくり休んでね」と言う私に
「ありがとう、しずんでたってお父さんが帰ってくるわけじゃないし、元気でいたほうが喜んでくれるはずだから大丈夫よ」
という言葉が返ってきて安心しましたが
旦那様を亡くした人から聞くのは、一人になって、本当にいなくなってしまったんだと思うと
さびしくてたまらなくなるって
そんな思いを繰り返しながら女性は逞しく生きて行くんだな、と思います。
私たち6人兄弟は5人になってしまいました。
長女の姉は間もなく79歳、長兄は77歳、二人ともまだまだ元気ですが
姉が「次は順番でね、私だから」なんて言うのを聞くと
これから何度見送ることになるのか、いや順番なんて関係ないのだから見送ってもらうかもしれないし
自分たちが老いて行く言うことを改めて考えさせられた兄の死でした。
友人代表の方の弔辞にもありましたが、好奇心旺盛な、好きなことにはとことんはまりこんだ兄
ひつぎにはお気に入りの洋服、所属していた海洋クラブの会員帽子、
自分の手で何年か、かかって作り上げたログハウスの写真、そして4人の孫たちからの手紙等々
最後の10年は無念の時期だったろうけど、これだけのものを残して旅立って行きました。
これからも夫として父として、祖父として家族を見守ってあげてね。
Yちゃんさよなら お疲れさまでした![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0198.gif)
感謝でいっぱいです。
ありがとうございました。
一昨日の通夜、昨日の葬儀と、滞りなく無事終わりました。
兄の自宅を訪れたのは何十年ぶりでしょう。
ずっと昔、姪たちが幼いころ建てたばかりの家に行って以来
その後、子供たちは独立し、家庭を持ち、それぞれが親になり
そんな長い年月ご無沙汰してしまいました。
兄が最初に脳梗塞で倒れたのは平成14年と言ってましたから、ちょうど10年前
その日、偶然にも、前日高校の同級会で実家に泊まっていた私は、慌てて病院に駆け付けたことを
覚えています。
その時は、それほど重篤な感じではなかったので、安心して、
その後、1度見舞いに行きましたが、まったくおかしな様子もなく
後遺症の話もしっかり自分でできてましたし、
これからも病気と付き合っていかなければならないものの、それほど心配することもないだろうと
胸のつかえがとれたような安堵感で病室を出たことを思い出します。
しかし、それからしばらくして、さまざまな症状が出始め
約1年後、大阪に入院していた私を見舞いに姉や義姉達と来てくれた時には
あら?っという感じに
心配はしていたのですがその後どんどん病状は悪化していきました。
10年の闘病生活は本人はもとより、家族にも大きな負担は当然のこと
義姉も自分一人ではとても支えきれないと、長男家族と住むために2世帯住宅に建て替えて
共に支えてきたのですが・・・
4年ほど前から口からいっさい食べられなくなり、胃ろうに移行し、去年の夏前からは点滴のみで
生かされているという感じでした。
兄は日当たりのいい居間に寝かされていました。
会ったらなんて言おうといろいろ考えてましたが
「ごめんね」の一言で涙になり何も言えませんでした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
義姉にもご無沙汰のお詫びをして、兄の横顔を見ると、こんなにも、と思うほど亡き母にそっくり
生前はこんなに似ているとは思わなかったのですが
好奇心旺盛なところまでそっくりだったね
「誰が最初に来るかと思ったらあなただったの」って母が向こうで言ってるようで
お互い趣味の話で盛り上がるかもしれません。
なにより救われたのは、義姉が「お父さんの分までこれからは楽しむから」と前向きでいてくれたことです。
冷たいと感じる人もいるかもしれないけど、永年、寝たきりで、なんの反応がなくても
週2回は会いに行っていたと言う義姉、
友人たちからの旅行の誘いも、息子に勧められても行く気にならなかったという義姉を
だれが責められるでしょう。
兄も辛かったけど、元気になんでもできる義姉だっていろんなことを我慢してきたのです。
去年の母の法事の時、胃ろうから点滴になって、もう長くはないかもしれないけど
せめて70歳は迎えさせてやりたいと気丈に話していた義姉でした。
兄の誕生日は12月、義姉の願いどおりなんとか70歳を迎えることができました。
私がいる間に、義姉のお友達が弔問にいらっしゃいました。
<私なんかより、この方の方がずっと義姉の苦しみも辛さもわかっているんだろうな>
遠くの親戚より近くの他人とは、よく言ったものです。
義姉には気の合うお友達が大勢いるみたいなので安心しました。
家族も大事だけど、こうなってみると友人の存在はとても大事です。
葬儀も終わって別れ際、
「これから疲れが出てくるからゆっくり休んでね」と言う私に
「ありがとう、しずんでたってお父さんが帰ってくるわけじゃないし、元気でいたほうが喜んでくれるはずだから大丈夫よ」
という言葉が返ってきて安心しましたが
旦那様を亡くした人から聞くのは、一人になって、本当にいなくなってしまったんだと思うと
さびしくてたまらなくなるって
そんな思いを繰り返しながら女性は逞しく生きて行くんだな、と思います。
私たち6人兄弟は5人になってしまいました。
長女の姉は間もなく79歳、長兄は77歳、二人ともまだまだ元気ですが
姉が「次は順番でね、私だから」なんて言うのを聞くと
これから何度見送ることになるのか、いや順番なんて関係ないのだから見送ってもらうかもしれないし
自分たちが老いて行く言うことを改めて考えさせられた兄の死でした。
友人代表の方の弔辞にもありましたが、好奇心旺盛な、好きなことにはとことんはまりこんだ兄
ひつぎにはお気に入りの洋服、所属していた海洋クラブの会員帽子、
自分の手で何年か、かかって作り上げたログハウスの写真、そして4人の孫たちからの手紙等々
最後の10年は無念の時期だったろうけど、これだけのものを残して旅立って行きました。
これからも夫として父として、祖父として家族を見守ってあげてね。
Yちゃんさよなら お疲れさまでした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0198.gif)