横浜田舎物語

サザン、サッカー、ロードバイク
エイジレスばあばのパワフルな日々
をお届けします

地酒ツアー

2007-11-06 | 旅行
旅行から帰りました。

いかがですか?
酒好きにはたまらない1枚なのでは

今回の旅行は紅葉の信州もさることながら

”地酒蔵元訪問ツアー”

もちろん旅行会社にはそんなツアーはありません。

酒好きの私が勝手に付けた名前です

前日、胃カメラを飲んで今にも死にそうな大騒ぎをした人間が
なんなんだ と、いう声が聞こえてきそう

ま、それはともかく、長野県、特に南信州方面は地酒の宝庫

諏訪の[真澄酒造]に始まって、[舞姫]、[横笛]、

高遠の[仙醸]、奈良井宿の[杉の森]、そして

今回1番の目的だった木曾福島の[七笑酒造]

これだけ並ぶと圧巻でしょう

「どんだけ~」 と誰かに言われそう

いつまでもつかって?ワインじゃなくて日本酒ですよ

お正月には改めて買わなくちゃいけないことになるでしょう

そういえば結婚前、兄たちと飲んだとき

「あたしさあ 結婚しようと思ってるんだけど」と

真剣に話したつもりなのに、兄たちから返ってきた一言は

「そいつは酒が飲めるのか?」 

<はあ>でしたよ。普通、どんな仕事してるんだ、とか聞くでしょう

兄たちに言わせると、<こんなわがまま娘、もらってくれるなんて
ボランティアだ>とか

そんな逸話がありまして今に至っているわけですが

さて、どれから手を付けましょう



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長い一日

2007-11-03 | ひとりごと

生まれて初めて胃カメラというものを体験しました。

少し前から調子が悪く、一時は最悪のことも考えたりしました

見た目とは裏腹に気の小さいことといったら天下一品で
自分の中にしまっておくことができず、
家族はもとより親しい友人に訴えては同情を買う始末

実際話をすると、けっこう経験している人は多く、
<みんな大人なんだなあ>と妙な感心をしたりして


当日は午後からの検査だったので、朝食は軽く、昼食は抜いて
でも、水分はとっていいですよ、といわれたので
ひたすらスポーツドリンクで空腹感を押さえその時を待ちました。

その間、友人たちからが入ったり、がきたりで
なにをそんなに一大事と言う感じで病院に向かいました。

看護師さんに呼ばれて衣装替えをし、いよいよ開始、こうなるとけっこう覚悟が決まるものです。

最初はのどを麻痺させるための飲み物?をのどに溜め込んで5分間
ずっと上を向いたままだったので、何が不快かって、首の後ろが・・・

その後、ベッドに横になるとドクターのおでまし
「初めてだから緊張してると思うけど気持ちを楽にして、もうまな板の鯉なんだからね」

<ほんとはまな板のトドって思ってるくせに

<わかってるけどさ、やっぱりこわいよ~

「これから眠れる薬を注射するから力を抜いて眠ってくださいよ」

<そんなこといったって~ こわいよ~

のどを何かが通っていきます。涙が出ているのもなんとなくわかりました。

「終わりましたよ」とドクターの声 

<で、どうだったのよ>と聞きたいのに、もうどうでもいいやと思うほど意識は朦朧

看護師さんに促されて仮眠を取るための部屋に通されたことはなんとなく
覚えています。

まわりの騒音で目覚めたものの、時間経過の感覚もなく
看護師さんに「そろそろ起きますか?もう5時過ぎですよ}
と言われてびっくり
なんと2時間も眠ってしまったのです

いよいよ運命の結果発表

「悪いものはなかったですよ。ポリープが1個あったので取り除いておきましたから」

<ああ良かった

その後詳しくいろいろ説明してもらいましたが
頭の中は明日からの旅行のこと、その後続くさまざまな楽しいイベントのことで
いっぱい

<この罰当たりが、感謝と言う言葉を忘れたのか>

ほんとに健康に感謝です。こういう思いをして改めて思い知らされるのです。

<健康なら何もいらない>とさっきまで思ってました。

今回も胃腸が疲れてるとの指摘がありました。

体力の過剰な自信はもろくもくずれ、年相応という言葉をかみしめた
今回の騒動

こうして薬の種類も量も増えていくのです。

夜、心配してくれた友人たちに一斉を送りました。

喜びの返事が次々と、

みんなありがとうまたいっぱい遊んでね

長い一日でした
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れんこんのきんぴら

2007-11-02 | お家ごはん
細くて小さめのれんこんが目についたときは
価格も安かったりするので、きんぴら用に
買ってしまいます。

れんこんは出来るだけ薄く切ります。
あくを取るため水にさらす。

なべにごま油を入れ、鷹の爪をほんの少しいれて炒める
水気を切ったれんこんを入れ、醤油とみりんを同量(大さじ1ずつくらい)
入れたら、炒め、しんなりする前に火を止める。

最後に花かつおを1袋(3gとか5g入り)ふりかけてできあがり

れんこんのしゃきしゃき感が残れば成功です。


 

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生きていれば

2007-11-01 | 家族
今日11/1は亡き母の誕生日
生きていれば97歳です。

明治43年戌年、静岡市鷹匠町で生を受け

一昨年の9/8天寿を全うして旅立ちました。

42歳で未亡人になり、私たち兄弟6人を
女手ひとつで育てました。

当時私は3歳でしたからまったくわかりませんが
姉の話では、父の葬儀の時も、それはしっかりと振る舞い
「さあ、明日からこの子達を食べさせなくちゃいけないんだから
泣いてなんかいられないよ」と言って周囲を驚かせたとか

幸い、商売をやっていたのと、働き者の祖母のおかげで
なんとかその場は乗り切り、当時高校3年生だった長兄が
自分の意思など関係なく跡取りとして三代目を継ぐことに
なってしまったそうです。

負けず嫌いで、向う気が強い人でしたから、私たちのことも
なにより<片親で育ったから・・・>と周りから言われるのが
嫌だったようです。

姉は私から見たらもう大人でしたから、母との確執はわかりませんでしたが
やはり、長女ならではの思いはいまだにあるようです。

なにしろ、はっきりと「私は女の子は嫌い」と信じられないことを
口にする人でした。

確かに、私も娘をもってみてわかったのですが、娘というのは母親の
一挙手、一投足をあげつらい、非難するものです。

それに比べて我が兄弟間でも、兄たちが
母の悪口を言うのを聞いたことがありません。

男の子にとって、かくも母親の存在とは女の子のそれとは違うものなのでしょう

母が兄たちのほうが可愛いというのも今となってはわかるような気がしますが
当時の私にはショックでした

そんな感じでしたから母とはよく戦いました。
私も末っ子のわがままでまったく言うことを聞かないし
母もまた、自分の考えを一方的に主張するので
合うわけがありません

しかしそれも、私がようやく精神的に大人になった頃には
沈静し、母を思う気持ちが前にでてきたように思います。

帰省したときも、なるべく穏便にを心がけ、帰るときには
<元気な顔を見るのはこれが最後かもしれない>との思いで
毎回胸が痛くなりました。

そんな関係が数年続いて、一昨年、肺炎から呼吸不全を起こし
一度は元気を取り戻したのですが、半年後、静かに旅立ちました

なにしろ兄夫婦、特に義姉の母に対する面倒見のよさは半端ではなく
本当に幸せな人でした。

私は幼く、母の女としての本当の気持ちが聞けないまま別れてしまいましたが
自分がもっと成長していれば、母の本音を聞いてやることが
出来たのではないかと、それだけが心残りです。

愛情の濃い人でした。思ったことを素直に表現できない人でした。
やっぱり、私は母の子です



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