「 尚 布里の墓 」
動画と写真は、南城市玉城地区にある琉球を統一した尚巴志の六男の尚布里の墓である。
1453年、尚 金福王が亡くなり、世子の尚 志魯 ( しょう しろ ) が王位を継ごうとした。
その時、江洲グスクから尚 金福王の弟・尚 布里が駆けつけて来て、王位承継争いになった。
やがて首里城内は敵味方に分かれて斬り合いとなった。
この争いで 「 倉庫が焼け、明皇帝からの王印が焼失し、両人は戦死した 」 と、
『 中山世鑑 』 や 『 球陽 』 には書かれているが、尚 布里は城外に逃れたといわれている。
その子孫の上江洲門中に位牌があり、位牌の底には大里 ( 越来 ) ・富名腰・伊平屋・志堅原など、
逃走経路が記されてあったという。
また、越来間切大里村の登川親雲上の娘・真佳度金 ( まかとがに ) を妻にしたといわれている。
同門中では、1963年に墓を調査し、甕の蓋に天順八年(1464年)58歳と書かれてあるという。
死亡年齢から推し量ると、王位争いの時は47歳で、この年に真佳度金と結婚したのか、
それ以前なのか、それとも真佳度金は後妻なのか判然としないが、
尚 布里は王位につくことなく58歳で亡くなり妻とともに今もここで眠っている。
所在地 : 南城市玉城當山