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田主丸 「 植木苗木発祥地之碑 」
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隣にある 「 諏訪神社 」
国道210号線の田主丸の殖木付近を走っていると、「植木苗木発祥の地」と書かれた案内板を目にする。
いつか寄ってみたい場所であったが、なかなか時間に余裕がなくて延び延びになっていた。
そんな場所にやっと寄ってみることが出来た。
【 現地 碑銘より 】
全国植木苗木の三大生産地として有名な我田主丸その名も殖木。
その栄光を伝統三百年の血と汗で培ってきた先達者達の足跡を今さらに偲び、
そして国土を支えながら我ら子孫を今日あらしめた不滅の業績をここに仰ぐ
思えば元禄年間太平の項、封建治世の重圧から開放されようとして
人々はせめてもの美と潤いを土に求めた皐月つつじの愛育もやがて江戸から地方へと伝播する。
折から第三紀層壊土の肥えた地味で育苗植樹に最適の郷土に着目した我祖先たちが
楮桐松桧葉蜜柑牡丹苗など細々と営む育苗の中に初めて躑躅を採り入れたという。
いかにも幕府の政策にあえぐ藩政と天災人災にさいなまれる農民が
生きんがために選んだ副業生産の活路でもあった。
この浮羽地にあって伊吉ハゼ苗は諏訪村苗圃の声価を高め、
遠く美濃国から持ち帰った桑苗「九紋竜」は近郷注目の的となった。
けれども景気と不景気との需要のアンバランスといかに多難な長い路線だったことか、
その間あるいは組合や研究会を組織して共同研鑽を怠らず
明治初年の業者十余名が20年には30余名となり、
同43年から諏訪神社境内に開かれた3日3晩の群集歓喜のるつぼと化した皐月つつじの大会であったが、
昭和の大戦にあえなく閉幕、すべて食糧増産に切り替えられねばならなかった。
しかし、すでに明治初年に諏訪村、明石田村を併せて植木村と呼び、
やがて殖木と改めた地名の中にさえ先覚者たちの遠大なる抱負と誇りは脈打っていたのである。
かくて良く家職を守り果樹苗木植木花弁盆栽と飛躍の一途に培ってきた精進と根性こそは
終戦後今日に及ぶ経済成長と農業構造改善事業を基盤とする好景気の恵みに浴する機縁ともなった。
重ねて思う、今や全国にそして国外にまで聞こえた苗木と植木の大生産地たる面目にかけて
その発祥の地たる我郷土殖木の名誉を思いしからしめた先輩弱斗の歴史に感謝し、
団結もって稼業を守り社会国家の福祉に寄与せんことを誓う。
と書かれてあった。